子母澤寛の祖父というのは微禄の御家人であり、上野彰義隊に参加し、敗れたのち箱館でも戦い降伏。士籍を返還して札幌近郊の開墾を経て厚田村に流れ着いて網元や貸座敷業や旅館業を営み、土地の顔役として生涯を終えたという。
子母澤寛の祖父というのは微禄の御家人であり、上野彰義隊に参加し、敗れたのち箱館でも戦い降伏。士籍を返還して札幌近郊の開墾を経て厚田村に流れ着いて網元や貸座敷業や旅館業を営み、土地の顔役として生涯を終えたという。
私は古写真をぽつぽつ蒐めている。その貧弱なコレクションを開陳するのは恥ずかしくて大いに躊躇われるのだが、それでも勇気を振り絞ってこのウェブログでも所有する古写真を紹介することもある。
古写真コレクターの大先達、巨星たる石黒敬七。その万分の一でもコレクションの質を高めたいと思わないではないが、現状は遠い夢である。
石黒敬七『蚤の市』(岡倉書房、昭和10年)。
装画・装丁は藤田嗣治!パリに集まった当時の日本人の姿を面白おかしくレポートする。
函ナシ、背に痛みもあり、保存状態はよくない。 しかし、まさかの680円でゲット。
表紙、扉絵が藤田嗣治。パリの情景を描いた函(あれば!)と口絵が佐分眞。さらに口絵に伊原宇三郎。「序」は作家・久米正雄。さらに「序文」が藤田嗣治。
石黒旦那の第一エッセー集のために友情出演の揃いぶみ、なんと豪華な顔ぶれ。
この本、手に取って眺めまわすだけでニヤケてくる。幸福だ。
『蚤の市』の一年後に出版されたのが右の『巴里雀』(雄風館書房、昭和11年)。装画は宮田重雄。石黒旦那のパリでの古写真収集譚を収める。
無念、これも函ナシ。ちなみに書名を『パリジャン』と読むのが通とのこと(ご子息の石黒敬章さんにお聞きしたことがある)。
キリスト教の伝道者で明治女学校の創立者で校長、また小諸義塾を開設した木村熊二は明治教育史、文学史上に語られる人である。
しかし私にとってはこの人は幕末維新史の人である。
木村熊二は但馬出石藩の儒官の子として生まれ昌平黌に学び幕臣の家に養子となった。幕末に歩兵差図役下役並、御徒目付などに任じられ上洛する。京都では御徒目付という職務がら新選組や京都見廻組の幹部格との連携が重要な仕事となり日常的に交流を深める。
木村には慶応2年8月から10月までの上京時の日記「帝都日乗」(『木村熊二日記 (校訂増補)』東京女子大学比較文化研究所、2008)があって御徒目付だった当時の行動を追うことができる。
たとえば慶応2年9月5日の日記には「朝御旅館出勤八半時帰寓。此日駕壬生村辺出張大野某、只三郎に面接」とある。
壬生村周辺に出張して情報交換、そこで只三郎と面談諸連絡、午前一時頃帰宅する。この只三郎という京都見廻組の佐々木只三郎のことだと思われる。
木村はまた後年に木村蓮峰の名で報知新聞の報知漫筆欄に幕末維新の回想記を連載している。この連載は一人の幕臣が体感した幕末史になっていてすこぶる興味深いものとなっている。
明治40年8月5日の報知新聞の報知漫筆欄は「近藤勇」と題しての木村の近藤勇についての回想になる。
抜き出してみよう。
「吾少時、屡々内藤新宿の辺を往来して近藤勇の名を聞けり。彼の剣客なるを以て敢て其門に至りし事なかりき。吾が彼と交際せしは彼が土方歳三等と新選組の名の下に松平容保の手に属し、輦穀の下を護衛せし頃にてありき。当時吾も京都取締役御目付羽太庄左衛門に随伴して京地にあり、会桑両藩士及び京都見廻組の佐々木只三郎、羽倉鋼三郎の諸人と相接して浮浪の徒の取締上に付き、密談を為したることありき。町奉行滝川播磨守の手にて厳重に探索せし結果、浮浪の輩は市内に身を置く地なく、多くは堂上方の邸内に潜伏し、屡々出でて人を殺して人家に入りて財物を掠奪して其の暴行を極む。かくて巡吏等も手を下すの機会なかりき。故に新選組に命じて此等の無頼漢の挙動を精細に取調置き、時としては其捕縛を命ずることせり。近藤勇は彊毅にして胆略あり。少しく不穏の形跡ある者は用捨なく捕へて取調を為し、其捕へんと欲するものあれば、勇自ら一人の従者と共に其下宿に出張して面会を求め、寒暖の挨拶を為して後幕命にて捕縛するの余儀なき旨を陳べ、決闘の意あれば相手を致すべし。尋常に縛に就くならば其用意しかるべしとて手づめの談判に及べり。浮浪の徒といへども武士にてあれば、をめゝと縛に就くは刀に対して快からず、近藤の前にも耽しく余儀なく決闘を請ひて死せし者も少からず、薩長士の諸士は最も勇を嫌悪して彼を除かんと欲し、屡々途上に要撃したるも皆勇等が刀の錆となりたりき。」
この回想で木村は討幕派を浮浪の徒と呼び、目付の下僚たる御徒目付としてその取締りに躍起となる。近藤勇、佐々木只三郎、京都見廻組や会津、桑名藩士らと情報を共有しその取締りの対策を講じている。
この回想は、京都の幕府機関がどのように反幕府勢力の取締りに当たっていたかの概要を教えてくれるものになってもいる。
また先日、池田屋事件における近藤の第一声がどんなものだったか「維新階梯雑誌」に依って世間の話題になったが、多少戯画的ではあるが近藤の浪士捕縛にのぞむ際の態度を伝えていることは面白くもある。
木村の回想を続けよう。
「其頃三條の橋畔に国禁のケ條を書したる制札てふ物ありしが、何人の悪戯かそを取り除きたり。随つて懸れば随つて携帯し去り。何物の所為なるかを知らざりしなかりき。勇に命じてそを探索せしむ。新選組の一人は乞食の形に装ひ薦を被て一夜橋畔に伏し居たりしが、両岸の樓臺人已散じ歌吹海波寂として声なく、たゞ江干の清風と柳外の新月を残して疎燈人影だになくなりたる頃、いづくとも知らず十六人の武士集り来り、いざ制礼を脱さんとせしかば近傍の居酒屋に潜みゐたる勇等五人にその事を報じたり。勇を真先に五人の者出て来りて拾六人を捕へんとせり。新選組は生ながら彼の暴漢を捕んとの目的なれば刀を抜かず赤手にて彼等に向ひ為めに非常なる傷を蒙りたるも六人を捕縛し五人を斬り其他は脱れ去れり。後に取調たるに彼等は土州藩士にてありき。」
三条大橋の制札事件のことが語られている。もっともこの事件に近藤は出動していないはずなのだが。
制札事件に続き以下の記述もある。
「吾嘗て勇等と酔を鴨西の一楼に買ふ。座中に紅袖青蛾両人ありて、姉は梅の如く、妹は桜に似て艶と清との双看するの心地せり。やがて会藩の一人は『アア自己の君公(容保)も御苦労をなさるがせめてこんな美人でもあげたいものだ』美酒隻肴の前に雑陳せるや一人は杯を挙げて『アア旨い酒だ。君公にあげたいナー』吾は其際彼等が君公を愛するの赤心は父子骨肉にもまさるの状を見て無限の感慨を催したりき。他日彼等が瘡残の余卒を率ゐて若松の孤城に立寵り、天下の兵を引受けて君臣死を共にして固守したるは、この愛君の精神の焼点に達したるものか。」
鴨川の西の楼で近藤勇と会津藩士たちとで杯をあげた木村はその場に美しい姉妹の芸者の姿を見つける。この姉妹の芸者が近藤勇の愛妾だったかどうかは分からない。ただ酒席をともにしていたという回想があるのみだ。
近藤勇が深雪太夫とその妹お孝の姉妹を愛妾としていたことは広く知られている。その姉妹とは別の姉妹の芸妓を近藤が酒席によんでいたことはそこだけでも掘り下げたくなる話ではある。
木村熊二はこの時出会ったこの姉妹に一目惚れしたようで、しばしば訪ねて執心を示している。この姉妹の名を姉は繾勇、妹を繾尾といった。姉の繾勇に勇の文字がついているのが興味深くもある。
木村の日記にはこの姉妹の名が散見される。
「朝渡辺信之丞ヲ訪大五郎ト会、松楼ヲ訪繾勇、繾尾姉妹来、小酌依田竹次郎ト会、勇尾信之丞同伴某楼ヲ訪会眠」(10月6日)
「杉原三郎兵衛、渡辺信之丞同伴某楼に会ス、繾勇姉妹来小酌会眠」(10月8日)
慶応2年10月、江戸帰府を命ぜられ10月10日に京を立つまで、9月から10月にかけて9日も繾勇姉妹と会い別れを惜しんでいる。
10月9日は盛大な送別会が行われた。
「弥兵衛同行三条橋詰おゐて信之丞、安西数馬ヲ面接、繾勇ト会某楼ヲ訪歌妓七名来別宴繾尾来」とある。京都見廻組幹部小林弥兵衛や御徒目付の同僚と大勢の芸者をあげての別れの宴であった。
報知漫筆での木村の近藤の回想は近藤の最期でその文を結んでいる。
「吾嘗て板橋駅に於て汽車を待てり。前面の田甫園の小丘に一箇の石塔のあるを看る。怪んで傍人に問ひしに一老ありて「あれは近藤様の墓です」といへり。近藤とは誰なるやと問ひしに「近藤勇様です、ゑらい方でした」といへり。吾は覚えず悵然たり。「近藤はどうしてあそこに葬られたのか」「あそこで斬られたのです」と。吾は近藤の末路を十分に知らざりしが始めて彼の死處を知ることを得て胸間の感慨遣るかたなかりき。嗚呼かの一杯の土は彼が未死の心を埋めし場所なるか、かの蒼苔に包れたる孤墳は侠骨稜々たる英雄の堕涙碑なるか。春草年々緑なるも魂は帰り来らず。花は発き花は散て空しく彼の英霊を弔ふが如し。老翁は語をつぎて云ふ。「近藤様は久しく板橋のある屋敷の内に捕へられていましたが一日官軍が来て近藤様を引出しました。その時には汚れた衣物を着て顔色も憔悴てゞした。食事なども十分にはあげなかつたとの事でした。官軍が来ました時、近藤様は何をするのかと御問ひになりましたら貴様の首を斬つて京都の三條の橋にさらすのだといひました。すると近藤様は一寸とも驚いた御様子もなく、されば湯に浴し髪を結ふことを許せとて其より湯に入り髪を結ひ衣類を着かへ近所の蕎麦を差しあげたれば心地よく召あがりました。とうとうあそこへ引出されてわるひれず平気で斬られておしまひなさいました」とて愁を帯て語りたりき。武士の沈静たる膽気は無智の老翁までも長く同情の涙にむせぶこととはなりぬ。」
日光街道旧粕壁宿(春日部)の東陽寺に旧桑名藩士 浅野蕉斎の記念碑が建っています。
文政7年に桑名で生まれた浅野は、藩の御側役や勘定頭も勤めた優秀な藩士でした。藩主が京都所司代となり藩内多事を極める中、会計の任にあたりよくその職に尽くしたといいます。
維新後は東京府に出仕、また旧主家の家令や家扶頭となります。
晩年に春日部へ移り粕壁中学校の教諭となります。退職後も春日部に留まり近隣の子弟を相手に私塾を開きました。
明治22年に68歳で亡くなっています。碑は門人らによってその2年後建てられたものです。
さて、私はこの人を新選組の成合清の叔父さんではないかと考えています。
桑名藩士の成合清(常久)は箱館戦争の際に新選組に所属した入隊時期の最後の方の隊士です。
浅野蕉斎は成合又太夫の四男として生まれ浅野家に養子にいきましたが、その実父の名前は成合清の祖父の名前と同じです。
さらに成合が明治9年に妹に宛てた書簡の中に「浅野御叔父様」という記述があり、叔父さんに浅野という人物がいたことは確実です。
これらのことからこの記念碑の浅野蕉斎が成合清の叔父さんに間違いないだろうと思っています。
東陽寺ではあいにく住職がご不在で住職夫人にしか話を聞けませんでした。
記念碑はあるもののお墓そのものは東陽寺には無いとのことでした。なので浅野の後裔の存在を知ることは出来ませんでした。
明治17年の11月の『東京自由新聞』第735号の雑報に「二宮新吉傳一夜説」という記事が載った。伊予宇和島の志士二宮新吉(呉石)の事歴に関する投稿記事で、投稿したのは二宮新吉を知る東京麻布に住む青木知友と名乗る人物。
以前購った古本を3冊紹介してみます。
まずは真ん中。
福永恭助『 海将荒井郁之助』(森北書店、昭和18)
この伝記は書き手に人を得なかったようであくまで読み物風。通俗小説的な文体の上に事実関係にアラが目立つ。福永はモダニズム雑誌『新青年』に寄稿しているような人なので歴史に関しては門外漢だったろう。
巻末には、荒井の生い立ちから薩摩藩邸焼打ちまでの自伝ともいえる手記「荒井家伝記」、三宅花圃による荒井の義弟安藤太郎を回想した「安藤太郎小父の追想」、息子の荒井陸男の「倅から見た荒井郁之助」の三編の貴重な資料が収録されている。これがこの本の大切な肝で、当初は荒井の正伝を目指すしっかりした編集方針があっての資料収集があったのだろう。福永が執筆した伝記部分の弱さがなんとも惜しい本だ。
ちなみに私が隠れた名著と考えている楠善雄『土木屋さんの歴史散歩』(楠善雄刊行記念会、昭和51)という本には、箱館戦争で荒井の部下だった岩橋教章の息子の岩橋章山がまさにこの伝記に寄せながら未収録となってしまった内務省地理局測量課長•初代中央気象台長時代の荒井のことを書いた「大義院殿追憶」の一文が発掘されて載っている。大義院殿は荒井の戒名。
荒井にはその他にも江戸脱走から箱館戦争終結までの手記や、東京での獄中記、開拓使出仕時代の手記まであったそうだ。しかしこの伝記が編まれる前に火災で消失していたとのこと。非常に残念。
右の本。
氏家榮太郎『汲古雑録』(非売品、昭和15)
金沢市立図書館の氏家文庫に名を残す加賀の郷土史家氏家榮太郎の遺稿。
幕末の加賀藩の風俗、制度が記されている。子息の海軍中将氏家長明が父の一周忌に未定稿をまとめ私家本として出版した。
この本で私は、加賀藩の幕末に起きた知られざる疑獄 高田森左衛門事件(越前藩と結託した人々が金沢で武力テロを起こそうとした事件)なるものの存在を初めて知った。
左の本。
荘清次郎『落葉集』(非売品、大正15)
幕末の大村藩で家老を含む26名の佐幕派(というほど単純ではないのだが…)の藩士を獄門・斬首・切腹などに追い込んだ粛清劇「大村騒動」。命を落とした藩士の一人が神道無念流の練兵館で桂小五郎の前に塾長を務めていた荘新右衛門という人である。その荘新右衛門の伝記本。著者は息子で父と死別した時は僅か五歳だったそうだ。