幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

子母澤寛の祖父は幕臣だったのだろうか?

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子母澤寛の祖父というのは微禄の御家人であり、上野彰義隊に参加し、敗れたのち箱館でも戦い降伏。士籍を返還して札幌近郊の開墾を経て厚田村に流れ着いて網元や貸座敷業や旅館業を営み、土地の顔役として生涯を終えたという。

この祖父に盲愛にも似た可愛いがられ方をされたことが子母澤の文学上の源泉となり、その佐幕意識にもとずいた幕末ものの小説を数多く作り出したとされる。
 
たとえば『中央公論』(昭和42年8月)で子母澤と司馬遼太郎とが対談を行っているが、そこでも子母澤は司馬に幕臣意識を指摘されて、同意している。
 
(司馬)
私、今日伺おうと思っていたことがひとつございますんですが、それは何でもないことですが、先生の作品を読んでいて、先生の場合は幕臣だったおじいさんをお持ちで、どうしても幕臣だったおじいさんの気持ちとか、美意識とか、そういうものを自分が書かなくては、という悲壮感があるように思えてならないのですが、やはりございましょうね。
 
(子母澤)
それはありますね
 
子母澤には祖父を主人公とした作品が数作ある。
伝法肌の江戸っ子の御家人の主人公が彰義隊に参加する長編『花の雨』(主人公は三十俵取りの御家人伴鉄太郎)やほぼ同じテイストの作品『昼の月』(微禄の御家人桜井金之助)の二つの長編は子母澤の祖父斎藤鉄太郎の人物像をモデルにしていると言われている。
 
祖父の姿をストレートに描くのは短編の諸作品である。
蝦夷物語』(別冊文藝春秋、昭和33年17号)は子母澤の代表作のひとつで、上野彰義隊の戦いで敗走した御家人が、苦労しながら仙台までたどり着き、榎本艦隊に合流、蝦夷にわたり箱館戦争に参加するという祖父斎藤鉄太郎の姿を描いている。
 
その続編ともいえるのが『厚田日記』(小説新潮昭和36年10月)で、祖父斎藤鉄太郎が箱館で降伏した後、札幌近郊の開拓地で開墾を始めたが、敗残の同志と謀って逃亡、落ち延びて小漁村の厚田村に土着するまでを描く。
 
『南に向いた丘』(小説中央公論昭和36年7月)はほぼ『厚田日記』に準じた内容になっている。
 
それぞれの作品で子母澤の祖父斎藤鉄太郎を幕臣御家人としている。
 
蝦夷物語』では「斎藤鉄太郎 御家人、二十俵」としている。そして子母澤が祖父を描くときの重要な登場人物で、上野の敗走から箱館戦争厚田村の土着まで常に行動を共にする祖父の相棒の福島直次郎を「福島直次郎 御家人、踊に長じ料理うまし」と書く。
 
『南に向いた丘』では「斎藤鉄太郎 二十俵の小普請の御家人で本所南割下水に住んで居りましたが、まだ女房もなく道楽者かと思えば、ひどく切り几帳面なところがございました。二十七八ではなかったかと思います。薄あばたがありました」と描く。
相棒の福島直次郎は「やっぱり御家人。斎藤よりもっと微禄であったようです。痩せたすらりとしたなかなかの粋きな人で踊は全くの玄人で江戸で寄席に出た事がある。それに手先が器用で料理が上手だったと申します。山谷堀の八百善で内緒で頼み込んで洗い方をやりながら板前を見習ったというのも本当のようです。
江戸にいた頃は、黒八の半天などをひっかけて服装風体悉くどう見ても職人のようだった。年はよくわかりませんが斎藤より二つ三つ年下でございましょう」とする。
 
祖父を描くこれらの短編のベースとなった作品が、昭和7年に『改造』に掲載された『無頼三代』であろう。刊本は同年に春陽堂から日本小説文庫の一冊として出されている。
しかし『無頼三代』は戦後に書かれた作品と決定的に違う点がある。そこでは子母澤寛の祖父は幕臣ではない。微禄の御家人という設定ではないのだ。
伊勢の藤堂藩の家中で江戸上屋敷で生まれたものの若くして屋敷を出てヤクザになった人物、それを祖父として描いている。
 
「私の祖父は江戸の無頼(やくざ)でありました。
本来は伊勢の藤堂さんの家中であります。何時頃から、何うしてそんな仲間に入つたのかは解りませんがー身体一面に龍の刺青があつて、その背中の真ン中のところに丈五寸幅三寸位の観音様の御立姿が、輪郭をとつて立派に彫つてあつた。このお姿の開眼を、何処からどう手を廻したものか、その頃の浅草伝法院の偉い坊さんに、あの本堂の御厨子の前で、一針ちくりとやつて貰つたのが、二十一の春だつたーと話してゐましたから、もうその頃には、一人前の無頼者(やくざもん)だつたと思われます。」
 
「本名が松村十次郎といふのですが、その時分は、斎藤鐡五郎と偽名し、刺青が異名になつて、観音の鐡が通り名だつたと云ひます。」
 
「祖父などは、伊勢ですが江戸で生れて江戸で育ち、しかも年少からの無頼(やくざ)です。」
 
「まして祖父に至つては、屋敷を出て、(よくわからないが、例の観音様を彫るのに三年半かかつたといふから、十七八頃と思ふ)以来といふもの、ばくちを打つのが全くの渡世で」
 
まず祖父の本名を松村十次郎としている。これは子母澤の本姓である梅谷を梅から松に変えて作中では松村としたのだろう。梅谷十次郎が祖父の本名と考えられる。また戦後の諸作品が斎藤鉄太郎と名乗ったとしているところを斎藤鐡五郎と偽名したとするのも特徴的だ。
そしてなにより『無頼三代』では子母澤の祖父は上野の彰義隊に加わっていない。
斎藤鐡五郎は吉原の妓楼に居続けしていたのだが金が足りなくなって、行灯部屋に押し込められていたところを、腕のいい板前だったがいまは身を持ち崩して妓夫となっていた直次郎という男に、品川に停泊している榎本艦隊が北走前に兵士を募集しているからそれに参加しようと誘われたのがきっかけとなり妓楼を逃げ出て、榎本軍の徴募に応じて蝦夷地に渡った。蝦夷地では榎本軍でもヤクザばかりの組で大砲を引いていたというからほとんど軍夫としての参戦だったように描かれている。
幕府の禄を食んでいたわけではなく、やくざが身も持ち崩してそこから脱するために榎本軍に徴用されたという設定なのだ。相棒の福島直次郎も元は板前であり、御家人などとはしていない。
 
『無頼三代』を読む限り、祖父が御家人だったというのは子母澤の戦後に後付けたことではないのだろうかという疑問が湧きあがる。子母澤が家の歴史を騙った可能性はないだろうか。
思い切りちゃぶ台返しをするようなことを言っている。
幕臣の孫としての子母澤の文学的源泉を疑おうというのだ。
 
いや、好意的に解釈すべきか。江戸勤番の津藩士の子弟が微禄の御家人の養子となったという可能性もないではない。斎藤が養家の姓であるかもしれない。
しかしこの『無頼三代』での語り口は一切その素振りを伝えてくれていない。
 
北海道に栗賀大介という史家がいた。永倉新八の伝記『新選組興亡史 永倉新八の生涯』(新人物往来社、昭和47)の著者といえば新選組好きには通りがいいだろうか。その栗賀に『サムライ移民風土記 北海道開拓士族の群像』(共同文化社、昭和63)という著作もある。この本は会津藩士や淡路稲田家家臣たちの入殖、あるいは新選組御陵衛士阿部隆明の明治に入ってからの北海道での履歴について詳しかったりするのだが、梅谷十次郎にも項がたてられている。
そしてそこには以下の記述がある。
厚田村役場の明治の古い戸籍簿によると、梅谷十次郎は、三重県度会郡山田府内町拾貳番地亡梅谷与市四男分家、母は亡サエ。出生は嘉永元年拾貳月貳日となっている」
 
果たして子母澤寛の祖父は本当に幕臣(御家人)だったのだろうか。そして上野彰義隊の戦いに参加したのだろうか。
我々は戦後の諸編に巧みに加えられ子母澤の創作部分を真実だと思い込んでいる節はないのだろうか。
 
子母澤寛の佐幕意識の源泉が那辺にあったのか、これらは作家子母澤寛に関する文学研究、作品研究上の大いなる課題となるのではないか。
そしてそれらの解明は、やはり国文学を探求する人々に託されるべきであろう。
 

 

石黒敬七『蚤の市』『巴里雀』

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私は古写真をぽつぽつ蒐めている。その貧弱なコレクションを開陳するのは恥ずかしくて大いに躊躇われるのだが、それでも勇気を振り絞ってこのウェブログでも所有する古写真を紹介することもある。

古写真コレクターの大先達、巨星たる石黒敬七。その万分の一でもコレクションの質を高めたいと思わないではないが、現状は遠い夢である。

仕方ないので、せめて石黒敬七著作を蒐めよう。

 

石黒敬七『蚤の市』(岡倉書房、昭和10年)。

装画・装丁は藤田嗣治!パリに集まった当時の日本人の姿を面白おかしくレポートする。

函ナシ、背に痛みもあり、保存状態はよくない。 しかし、まさかの680円でゲット。

表紙、扉絵が藤田嗣治。パリの情景を描いた函(あれば!)と口絵が佐分眞。さらに口絵に伊原宇三郎。「序」は作家・久米正雄。さらに「序文」が藤田嗣治

石黒旦那の第一エッセー集のために友情出演の揃いぶみ、なんと豪華な顔ぶれ。

この本、手に取って眺めまわすだけでニヤケてくる。幸福だ。 

                                       

 

『蚤の市』の一年後に出版されたのが右の『巴里雀』(雄風館書房、昭和11年)。装画は宮田重雄。石黒旦那のパリでの古写真収集譚を収める。

無念、これも函ナシ。ちなみに書名を『パリジャン』と読むのが通とのこと(ご子息の石黒敬章さんにお聞きしたことがある)。

明治40年8月5日の報知新聞「近藤勇」

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キリスト教の伝道者で明治女学校の創立者で校長、また小諸義塾を開設した木村熊二は明治教育史、文学史上に語られる人である。

しかし私にとってはこの人は幕末維新史の人である。

 

木村熊二は但馬出石藩の儒官の子として生まれ昌平黌に学び幕臣の家に養子となった。幕末に歩兵差図役下役並、御徒目付などに任じられ上洛する。京都では御徒目付という職務がら新選組京都見廻組の幹部格との連携が重要な仕事となり日常的に交流を深める。

 

木村には慶応2年8月から10月までの上京時の日記「帝都日乗」(『木村熊二日記 (校訂増補)』東京女子大学比較文化研究所、2008)があって御徒目付だった当時の行動を追うことができる。

たとえば慶応2年9月5日の日記には「朝御旅館出勤八半時帰寓。此日駕壬生村辺出張大野某、只三郎に面接」とある。

壬生村周辺に出張して情報交換、そこで只三郎と面談諸連絡、午前一時頃帰宅する。この只三郎という京都見廻組佐々木只三郎のことだと思われる。

 

木村はまた後年に木村蓮峰の名で報知新聞の報知漫筆欄に幕末維新の回想記を連載している。この連載は一人の幕臣が体感した幕末史になっていてすこぶる興味深いものとなっている。

 

明治40年8月5日の報知新聞の報知漫筆欄は「近藤勇」と題しての木村の近藤勇についての回想になる。

抜き出してみよう。

 

「吾少時、屡々内藤新宿の辺を往来して近藤勇の名を聞けり。彼の剣客なるを以て敢て其門に至りし事なかりき。吾が彼と交際せしは彼が土方歳三等と新選組の名の下に松平容保の手に属し、輦穀の下を護衛せし頃にてありき。当時吾も京都取締役御目付羽太庄左衛門に随伴して京地にあり、会桑両藩士及び京都見廻組佐々木只三郎、羽倉鋼三郎の諸人と相接して浮浪の徒の取締上に付き、密談を為したることありき。町奉行滝川播磨守の手にて厳重に探索せし結果、浮浪の輩は市内に身を置く地なく、多くは堂上方の邸内に潜伏し、屡々出でて人を殺して人家に入りて財物を掠奪して其の暴行を極む。かくて巡吏等も手を下すの機会なかりき。故に新選組に命じて此等の無頼漢の挙動を精細に取調置き、時としては其捕縛を命ずることせり。近藤勇は彊毅にして胆略あり。少しく不穏の形跡ある者は用捨なく捕へて取調を為し、其捕へんと欲するものあれば、勇自ら一人の従者と共に其下宿に出張して面会を求め、寒暖の挨拶を為して後幕命にて捕縛するの余儀なき旨を陳べ、決闘の意あれば相手を致すべし。尋常に縛に就くならば其用意しかるべしとて手づめの談判に及べり。浮浪の徒といへども武士にてあれば、をめゝと縛に就くは刀に対して快からず、近藤の前にも耽しく余儀なく決闘を請ひて死せし者も少からず、薩長士の諸士は最も勇を嫌悪して彼を除かんと欲し、屡々途上に要撃したるも皆勇等が刀の錆となりたりき。」

 

この回想で木村は討幕派を浮浪の徒と呼び、目付の下僚たる御徒目付としてその取締りに躍起となる。近藤勇佐々木只三郎京都見廻組会津桑名藩士らと情報を共有しその取締りの対策を講じている。

この回想は、京都の幕府機関がどのように反幕府勢力の取締りに当たっていたかの概要を教えてくれるものになってもいる。

また先日、池田屋事件における近藤の第一声がどんなものだったか「維新階梯雑誌」に依って世間の話題になったが、多少戯画的ではあるが近藤の浪士捕縛にのぞむ際の態度を伝えていることは面白くもある。

 

木村の回想を続けよう。

 

「其頃三條の橋畔に国禁のケ條を書したる制札てふ物ありしが、何人の悪戯かそを取り除きたり。随つて懸れば随つて携帯し去り。何物の所為なるかを知らざりしなかりき。勇に命じてそを探索せしむ。新選組の一人は乞食の形に装ひ薦を被て一夜橋畔に伏し居たりしが、両岸の樓臺人已散じ歌吹海波寂として声なく、たゞ江干の清風と柳外の新月を残して疎燈人影だになくなりたる頃、いづくとも知らず十六人の武士集り来り、いざ制礼を脱さんとせしかば近傍の居酒屋に潜みゐたる勇等五人にその事を報じたり。勇を真先に五人の者出て来りて拾六人を捕へんとせり。新選組は生ながら彼の暴漢を捕んとの目的なれば刀を抜かず赤手にて彼等に向ひ為めに非常なる傷を蒙りたるも六人を捕縛し五人を斬り其他は脱れ去れり。後に取調たるに彼等は土州藩士にてありき。

 

三条大橋の制札事件のことが語られている。もっともこの事件に近藤は出動していないはずなのだが。

 

制札事件に続き以下の記述もある。

 

「吾嘗て勇等と酔を鴨西の一楼に買ふ。座中に紅袖青蛾両人ありて、姉は梅の如く、妹は桜に似て艶と清との双看するの心地せり。やがて会藩の一人は『アア自己の君公(容保)も御苦労をなさるがせめてこんな美人でもあげたいものだ』美酒隻肴の前に雑陳せるや一人は杯を挙げて『アア旨い酒だ。君公にあげたいナー』吾は其際彼等が君公を愛するの赤心は父子骨肉にもまさるの状を見て無限の感慨を催したりき。他日彼等が瘡残の余卒を率ゐて若松の孤城に立寵り、天下の兵を引受けて君臣死を共にして固守したるは、この愛君の精神の焼点に達したるものか。

 

鴨川の西の楼で近藤勇会津藩士たちとで杯をあげた木村はその場に美しい姉妹の芸者の姿を見つける。この姉妹の芸者が近藤勇の愛妾だったかどうかは分からない。ただ酒席をともにしていたという回想があるのみだ。

近藤勇が深雪太夫とその妹お孝の姉妹を愛妾としていたことは広く知られている。その姉妹とは別の姉妹の芸妓を近藤が酒席によんでいたことはそこだけでも掘り下げたくなる話ではある。

 

木村熊二はこの時出会ったこの姉妹に一目惚れしたようで、しばしば訪ねて執心を示している。この姉妹の名を姉は繾勇、妹を繾尾といった。姉の繾勇に勇の文字がついているのが興味深くもある。

木村の日記にはこの姉妹の名が散見される。

 

「朝渡辺信之丞ヲ訪大五郎ト会、松楼ヲ訪繾勇、繾尾姉妹来、小酌依田竹次郎ト会、勇尾信之丞同伴某楼ヲ訪会眠」(10月6日)

 

「杉原三郎兵衛、渡辺信之丞同伴某楼に会ス、繾勇姉妹来小酌会眠」(10月8日)

 

慶応2年10月、江戸帰府を命ぜられ1010日に京を立つまで、9月から10月にかけて9日も繾勇姉妹と会い別れを惜しんでいる。

109日は盛大な送別会が行われた。

「弥兵衛同行三条橋詰おゐて信之丞、安西数馬ヲ面接、繾勇ト会某楼ヲ訪歌妓七名来別宴繾尾来」とある。京都見廻組幹部小林弥兵衛や御徒目付の同僚と大勢の芸者をあげての別れの宴であった。

 

報知漫筆での木村の近藤の回想は近藤の最期でその文を結んでいる。

 

「吾嘗て板橋駅に於て汽車を待てり。前面の田甫園の小丘に一箇の石塔のあるを看る。怪んで傍人に問ひしに一老ありて「あれは近藤様の墓です」といへり。近藤とは誰なるやと問ひしに「近藤勇様です、ゑらい方でした」といへり。吾は覚えず悵然たり。「近藤はどうしてあそこに葬られたのか」「あそこで斬られたのです」と。吾は近藤の末路を十分に知らざりしが始めて彼の死處を知ることを得て胸間の感慨遣るかたなかりき。嗚呼かの一杯の土は彼が未死の心を埋めし場所なるか、かの蒼苔に包れたる孤墳は侠骨稜々たる英雄の堕涙碑なるか。春草年々緑なるも魂は帰り来らず。花は発き花は散て空しく彼の英霊を弔ふが如し。老翁は語をつぎて云ふ。「近藤様は久しく板橋のある屋敷の内に捕へられていましたが一日官軍が来て近藤様を引出しました。その時には汚れた衣物を着て顔色も憔悴てゞした。食事なども十分にはあげなかつたとの事でした。官軍が来ました時、近藤様は何をするのかと御問ひになりましたら貴様の首を斬つて京都の三條の橋にさらすのだといひました。すると近藤様は一寸とも驚いた御様子もなく、されば湯に浴し髪を結ふことを許せとて其より湯に入り髪を結ひ衣類を着かへ近所の蕎麦を差しあげたれば心地よく召あがりました。とうとうあそこへ引出されてわるひれず平気で斬られておしまひなさいました」とて愁を帯て語りたりき。武士の沈静たる膽気は無智の老翁までも長く同情の涙にむせぶこととはなりぬ。

 

 

新選組 成合清の叔父さん

 

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日光街道旧粕壁宿(春日部)の東陽寺に旧桑名藩士 浅野蕉斎の記念碑が建っています。 

 

文政7年に桑名で生まれた浅野は、藩の御側役や勘定頭も勤めた優秀な藩士でした。藩主が京都所司代となり藩内多事を極める中、会計の任にあたりよくその職に尽くしたといいます。

維新後は東京府に出仕、また旧主家の家令や家扶頭となります。 

晩年に春日部へ移り粕壁中学校の教諭となります。退職後も春日部に留まり近隣の子弟を相手に私塾を開きました。

明治22年に68歳で亡くなっています。碑は門人らによってその2年後建てられたものです。 

 

さて、私はこの人を新選組の成合清の叔父さんではないかと考えています。

 

桑名藩士の成合清(常久)は箱館戦争の際に新選組に所属した入隊時期の最後の方の隊士です。 

 

浅野蕉斎は成合又太夫の四男として生まれ浅野家に養子にいきましたが、その実父の名前は成合清の祖父の名前と同じです。

さらに成合が明治9年に妹に宛てた書簡の中に「浅野御叔父様」という記述があり、叔父さんに浅野という人物がいたことは確実です。

これらのことからこの記念碑の浅野蕉斎が成合清の叔父さんに間違いないだろうと思っています。

 

東陽寺ではあいにく住職がご不在で住職夫人にしか話を聞けませんでした。

記念碑はあるもののお墓そのものは東陽寺には無いとのことでした。なので浅野の後裔の存在を知ることは出来ませんでした。

三世 柳亭種彦の佐幕

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「明治最初の文壇小説家」といわれる三世柳亭種彦こと高畠藍泉はイケメンというよりもハンサムという言葉が似合う容姿だ。
 
「種彦氏は写真にも見える通り痩ぎすな苦味走つた風貌、性質は稍や神経質の勝つた人であつた。稍や強情な処もあつたが友情に厚く世話好きで且座談には長じて居た」(野崎左文『私の見た明治文壇』春陽堂、昭和2年)
 
この人の前歴は戊辰戦争の際に佐幕をなそうとした人である。
 
天保9年、幕府御本丸奥勤の御茶坊主衆の家に高畠求伴の次男として浅草七軒町組屋敷に生まれる。(銀座役人辻某の庶子で幕府御坊主衆の株を買って一家を興したという説もある)
慶応の始めに画を松前藩士高橋波藍に学ぶ。藍泉は画号である。弟に家を継がせ壮年に隠居し画家となった。
これより先に好んで稗史小説を読み殊に種彦の作品を愛読したという。
 
戊辰戦争に際し画筆を投げ打って佐幕党に加わり、陸軍奉行松平太郎と謀って豪商をまわり軍資金を集めた。さらに東北に脱した幕兵のために軍器輸送の事を引き受け、銃砲を箱館に回漕したが旧幕府軍は敗れたため、その尽力は徒労となった。身の置き所を失った藍泉は房総に逃れたのち江戸に戻り、草双紙を綴って辛うじて生活の糧を得るようになったという。
 
明治5年東京日々新聞の創刊後に同社に入り編輯に従事し、明治8年には平仮名絵入新聞に移り主筆の任に就いた。
 
明治18年48歳で死去。浅草松葉町正定寺に葬られた。
 
 
『新聞記者奇行傳』(細島晴之編、明治14年)よりその小伝を抜き出してみる。
 

 

「幕府の小吏にして、演劇を好み、花柳に沈醉し、所謂務め嫌ひにして遊蕩怠惰いふべからず。故に同僚親戚に疎まるれど、君更に意とせず、慶應の初め畫工と成て力食せんと實弟に家を繼がしめ、壯年にして隱遁す。君は畫を松前藩士高橋波藍に學び、藍泉は則ち畫名なり。戊辰の役佐幕の士東北に脱して官軍に抗戰せんと欲すれども銃器に乏し、時に君憤然と起て名を政(たゞす)と改め、陸軍奉行松平太郎君と謀り、單身四方に馳て御用達なる者を説諭し、巨萬の金額を募集するに、毫も暴言剛強の氣を顯はさず、却て渠をして落涙せしめ、銃砲を凾館へ廻漕せしが、諸道の脱兵潰るゝと聞て大に落膽し、再び畫工と成て諸方を遊歴す。明治五年日々新聞創立の際日報社に入て編輯に從事し、又繪入新聞を起しゝが、社論の合はざるより、去て各社に聘され、同十三年再び日報社に歸す。君近頃近世古物を愛すの癖あるを以て、假名垣魯文翁戲れに元祿古器の精なりといへり」

『小伝乙骨家の歴史』『明治の兄弟』

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ブックオフで購った古本2冊。

 

永井菊枝『小伝乙骨家の歴史 ー江戸から明治へ』(フィリア、2006

右の本は幕臣・乙骨家について。甲府徽典館学頭の乙骨耐軒から、その子で幕末の英学者乙骨太郎乙、さらにその子で童謡「はとぽっぽ」「汽車」「浦島太郎」の作詞者乙骨三郎に連なる一族の歴史。

 

『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』(文芸社、2008)

左は自費出版トラブルで有名な文芸社から出た本だが、文芸社たまに良い本を出してたりするので、気が抜けない。会津藩出身の柴兄弟の伝記。四朗と五郎の兄弟はよく諸書で語られるが、この本にはその兄の柴太一郎に項目が立てられているのがなんとも素晴らしい。

原田左之助は龍馬と別府温泉に入ったのか

明治17年の11月の『東京自由新聞』第735号の雑報に「二宮新吉傳一夜説」という記事が載った。伊予宇和島の志士二宮新吉(呉石)の事歴に関する投稿記事で、投稿したのは二宮新吉を知る東京麻布に住む青木知友と名乗る人物。

 
この記事に興味深いことが書かれている。
幕末、肥後藩の轟武兵衛・河上彦斎、豊後岡藩の小河一敏が四国の志士を豊後別府の浜脇温泉に招き時事を談じたことがあったという。
四国から別府に馳せ参じた志士の中に、伊予宇和島から二宮新吉がいたが、他にも日柳燕石、土肥大作・七助兄弟、那須俊平ら名のある人々がおり、さらには伊予松山から原田左之助、土佐からは坂本龍馬も参加していたというのだ。
 
龍馬と原田の両者はこの時に出会っていたというのか。
慶応3年11月にかたや被害者、もう一方は暗殺者に擬せられるという形で妙な因縁を持つことになる二人は、実はそれ以前からも縁があったということなのか。
龍馬と左之助は別府の湯に一緒に浸かったとしたら大変に面白い話になる。
 
もう一人、丸亀藩の土肥七助も別府行に加わっていたという。この人も原田との因縁という面では興味深い。なにせ土肥七助は池田屋事件の際に現場にいて桂小五郎とともに辛うじて難を逃れた人というのだから。(草薙金四郎『勤王奇傑 日柳燕石伝』昭和14年
 
しかし、別府浜脇温泉でのこの会合のことを記した史料の存在を私は知らない。会合を計画した一人だという河上彦斎の伝記(荒木精之『定本河上彦斎新人物往来社、昭和49年)などにもまるで見えぬことである。
そもそもこの新聞記事も人名表記が怪しい。もとより信ぜざることと片付けるべきなのかもしれない。
ただ明治17年と維新後比較的早い時代にその別府での会合に参加したという青木なる人が語ったということは大変興味深くはある。
 
私は轟武兵衛、河上彦斎、小河一敏ら九州の志士の動向を知ることは極めて少ない。彼らがこの会合を計画したことが事実なのか、会合自体あったのか、あったとしたらいつ頃のことなのか等々全て不明とせざるおえない。
 
轟武兵衛、河上彦斎、小河一敏の三者が絡むこと自体は文久元年から2年あたりにはそれなりの頻度であったであろう。彼らが、清河八郎の九州遊説に端を発して島津久光の挙兵上京に繋がった文久2年の九州の志士たちの熱狂を四国の志士に伝播しようと試みた可能性はないだらうか。
 
坂本龍馬に絡めて時期を考えれば、龍馬の最初の脱藩の後、文久2年4月から7月まで足取りが不明な時期があるので、そこに当てはめてみたくなる誘惑にかられる。しかしなんの根拠のないことだ。その期間では小河一敏は京阪にあって小河が四国の志士を別府に招くことは不可能だ。招き手はすでに不在だったが四国の志士たちは別府に来会したのか。
 
原田左之助松山藩安政5、6年ごろに脱藩したと推定されている(『新選組銘々伝 四』新人物往来社)。
脱藩から江戸の試衛館に姿を見せるまで約4年間その消息は不明とされる。しかし、そもそも原田の松山藩脱藩の時期はいつのことことかは分かっていない。史談会速記録で内藤鳴雪が原田について語ったことが原田の前歴を知る主要な材料になっているが、そこには具体的な脱藩の年は語られていない。
もしかしたら原田には脱藩の後にこの別府行きにみるような尊攘の志士としての活動歴があるのではないだろうか。藩制の最下級の武士だった人は国事鞅掌の人とならんがためにあるいは脱藩したのではないか。原田には知られざる志士としての活動歴があり、それはいくつかの曲折(そのひとつは自らの腹に切腹の傷跡を残すようなこと)を経て、江戸に出て尊攘の思想集団としての試衛館に合流したのではないか。道場としての試衛館に入り浸る浪人者、単なる武芸者のイメージで原田を語たるだけではいけないのではないか。
 
いささか空想が過ぎた。無根拠なことのみ書いている。
肝心の記事を抜き出してみよう。
 
「貴社新聞本月三四五の三日間雑報内に掲載せる伊予国宇和四郡を読んで余が旧識たる呉石二宮新吉君の鬼録に上られたることを知悉したり、余は元来山陽の草莽に出で、氏とは山海遼遠なるが故に深き交りあるに非ざるも其維新以前国事に慷慨し西の方有志者に会せんと豊後の国浜脇温泉に至り、五十余日を経過したるに豊後の志士轟武兵衛(肥後弾正大忠照幡烈之介)川上彦斎(肥後高田源兵衛)小河弥右衛門(豊後竹田藩家老小川一敏)三氏の計画する所より四国の有志者を密に仝所へ招聘せしに呉石氏は八幡浜より快船を以て同国人金子魯州(宇和島藩士金子孝太郎)松末杢兵衛、上田一学(荻野次郎)阿部権一郎(後宇和島藩小参事足立常雄)加来多喜太郎(三島典平)小原喜真太、西村鉄之助、森余山(吉田人)大洲人 山本真弓、萬沢珍平、松山人 原田某(松山藩士原田佐之助、後に壬生浪士と慶応三年一月京都河原町土州屋敷に於て坂本龍馬を暗殺したる人)讃岐人 土肥大作、土肥七亮、柳原燕石(日柳士煥の変名)土佐人 坂本節馬(後に龍馬)西春松(土藩儒士修) 松山深蔵、上岡昌軒、那須俊平、川口平介(多度津人)の以上数十人と共に来会せられ、各々湯治に托し一週日留りて余も其班に列して時事を談ずる事あり」
 
という部分だ。
私はこの記事を直接『東京自由新聞』から採ったわけではなく徳田三十四『革新家 市村敏麿の面影』(史蹟刊行会、昭和30年)という本に掲載してあるものから採った。なお詳しく掘り下げてみたい方はそちらの本の参照をお勧めしたい。
ちなみに市村敏麿は二宮新吉と共に無役地事件に奔走した人である。無役地事件とは宇和島藩政時代に庄屋に付与され既得権益化した土地の解放を農民たちが求めた争議で、市川と二宮は農民側を主導して裁判闘争を展開した。闘争は農民側の敗北となりそれを受けて二宮新吉は銃で自殺している。
 

蛭川一の顕彰碑

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伊東成郎さんがお書きになったものに「新選組金談一件」(『三井文庫論叢』)という史料の紹介があります。その史料によると土方歳三は「室賀美作守様御用人之次男之由」と書かれているそうです。土方が旗本・室賀美作守の用人の子供だったという事実はない筈で、単なる謬伝でしょう。

 

 

それはそうと、その室賀美作守の用人として文久三年の上洛に随従した剣客がおります。甲源一刀流の蛭川一です。その生地である深谷市上増田に写真のような立派な顕彰碑が建っております。碑文によれば蛭川は榊原健吉や天野八郎とも親しかったそうです。

 

 

福永恭助『 海将荒井郁之助』

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以前購った古本を3冊紹介してみます。

 

まずは真ん中。

福永恭助『 海将荒井郁之助』(森北書店、昭和18)

この伝記は書き手に人を得なかったようであくまで読み物風。通俗小説的な文体の上に事実関係にアラが目立つ。福永はモダニズム雑誌『新青年』に寄稿しているような人なので歴史に関しては門外漢だったろう。

巻末には、荒井の生い立ちから薩摩藩邸焼打ちまでの自伝ともいえる手記「荒井家伝記」、三宅花圃による荒井の義弟安藤太郎を回想した「安藤太郎小父の追想」、息子の荒井陸男の「倅から見た荒井郁之助」の三編の貴重な資料が収録されている。これがこの本の大切な肝で、当初は荒井の正伝を目指すしっかりした編集方針があっての資料収集があったのだろう。福永が執筆した伝記部分の弱さがなんとも惜しい本だ。

ちなみに私が隠れた名著と考えている楠善雄『土木屋さんの歴史散歩』(楠善雄刊行記念会、昭和51)という本には、箱館戦争で荒井の部下だった岩橋教章の息子の岩橋章山がまさにこの伝記に寄せながら未収録となってしまった内務省地理局測量課長•初代中央気象台長時代の荒井のことを書いた「大義院殿追憶」の一文が発掘されて載っている。大義院殿は荒井の戒名。

荒井にはその他にも江戸脱走から箱館戦争終結までの手記や、東京での獄中記、開拓使出仕時代の手記まであったそうだ。しかしこの伝記が編まれる前に火災で消失していたとのこと。非常に残念。

 

右の本。

氏家榮太郎『汲古雑録』(非売品、昭和15)

金沢市立図書館の氏家文庫に名を残す加賀の郷土史家氏家榮太郎の遺稿。

幕末の加賀藩の風俗、制度が記されている。子息の海軍中将氏家長明が父の一周忌に未定稿をまとめ私家本として出版した。

この本で私は、加賀藩の幕末に起きた知られざる疑獄 高田森左衛門事件(越前藩と結託した人々が金沢で武力テロを起こそうとした事件)なるものの存在を初めて知った。

 

左の本。

荘清次郎『落葉集』(非売品、大正15)

 

幕末の大村藩で家老を含む26名の佐幕派(というほど単純ではないのだが…)の藩士を獄門・斬首・切腹などに追い込んだ粛清劇「大村騒動」。命を落とした藩士の一人が神道無念流練兵館桂小五郎の前に塾長を務めていた荘新右衛門という人である。その荘新右衛門の伝記本。著者は息子で父と死別した時は僅か五歳だったそうだ。

高知県士族 岩田正彦

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昭和2年発行の福島成行『征韓論餘聞 赤坂喰違事変』という本から。

 

 

明治7年1月、赤坂喰違坂で岩倉具視の暗殺を企て襲撃した九人の中の一人、高知県士族 岩田正彦。斬首となった。