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高杉晋作は生きていた

高杉晋作は慶応3年4月14日下関で死んだわけだが、実は死んでなんかいなかった、生きていたんだ、なんてことを言ったら、さて賢明な皆様はどうお思いになるだろうか。
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明治8年の12月に、生きていた高杉晋作に会ったという人がいる。土佐人の米山政人である。
場所は長州の俵山温泉。高杉は剃髪して天津堂春風と名乗っていた。またの名を漂流坊海月ともいった。(これは私はなかなかに良い名乗りだと思う。高杉に似合っている)
実は死ななかった高杉は、自らを支那人に成りすまし、世界各国(五大洲)を巡っていたのだという。

英雄の生存譚。為朝や義経の類いだ。海外で生きていた維新の英傑が久しぶりに日本に戻ってくるというのはロシアから戻ってくる西郷隆盛の生存譚に先行する形式になっている。
面白い話なので紹介してみよう。
『東京曙新聞』明治9年2月22日(第712号)の記事に書いてあることである。

「高知縣士族米山政人といふ人が天下に有名なりし高杉晋作君の存生にて居らるゝよしを聞出し、わざわざ君を尋んため去年十二月廿一日大坂を出立して山ロ縣に立越し、 猶又其折俵山の温泉に入湯中のよしを聞糺して遙々の山路を踏分け彼所に至り、面會の上先つ其無事を賀しさて別後の様子を聞くに、支那人と稱して五大洲を巡行せられしよしにて感心なることばかりなるに、又共坐には九州の親玉も來て居られ共外南陽八郎淸水某の兩名も居合せたり、此南陽は故吉田松陰先生の次男にて久しく外国に在留せしが此度高杉君と一同に歸朝せしなりとぞ、高杉君は剃髮して天津堂春風別名漂流坊海月とも稱せらるゝよし、政人は四五日此所に滯留して本月十日大坂に歸着になったといふことが神戸新聞に出てありますは近頃の一奇聞ゆゑ皆さんへも早速御報知中上げます、若し確實なことを御存知の御方もあれば何卒御報知を願びます」

これより3日後の2/25の同新聞紙上、続報がある。次のような投書を載せる。

「貴社新聞第七百十三號を閲するに、高知縣士族米山政人といふ人が天下に有名なる高杉晋作君の存生にて居らるゝ由を聞出し態々君を尋んため去年十二月廿一日大阪を出立して山口縣に立越し、 又共折俵山の温泉に入浴中のよしを聞糺して遙々の山路を踏分け彼所に至り、面會の上先つ共無事を賀しさて別後の様子を聞くに、支那人と稱して五大洲を巡行せられし云々鳴呼奇なるかな妙なるかな、思ふに政人子は常陸小萩の誤か、如何となれは彼の有名なる高杉君は慶應三年春下の關王司にて肺病の保養叶はすして死去致され、同縣吉田驛淸水宗連寺山の招魂社に祭る、是れ人の知る所なり、然れは米山子は高杉君をほり出し俵山の温泉に連行き人湯百度にて全身現はれて再び面會なるか、葢し俵山は熊野本宮の温泉に異なり千萬度にても小栗の如く豈晋作君の再び此世に出現すべけんや、我高杉君の一子あるを知る是れ恐くは親子の誤りならん、然とも方今日新開明の世に至り人智を發し物理を究め死を去り活を取り眞面に對する奇々妙々の工夫ありて斯の如くなるか未共實有るを聞かす、故に予が知る所を報知なす者は赤坂田町に寓する山口縣下の三吉寬なり」