『維新長崎』は長崎市教育會から昭和16年に出た本。維新期の長崎を平易な文体で描いている。平山蘆江が装幀しており雰囲気のあるルックになっている。
さて、その本の中に大久保利通に関する面白い話が出てくる。大久保は自らを男性の陰部に擬えた名前「金玉 珍右衛門(キンタマ チンウエモン)」を名乗って幕府の役人の守る関所を通ったという。キンタマチンウエモン…そのまんまだ。あの厳格そうな大久保利通が。ほとんど浅草キッドの玉袋筋太郎かつぼイノリオの金太の大冒険のような名乗りではないか。
このこと、ウィキペディアの大久保の項にその変名としてぜひ載せてほしい(笑)
時は慶応3年3月に長崎警備を厚くするために浦上口(西坂)、西山口、日見峠、茂木口(田上)の4ヶ所に関所を設けて長崎への人の出入りを見張るようになったくらいの頃だという。実際の大久保にそのころ長崎行があったかどうか、私はあえて調べないでおいている。
抜き出してみよう。
【その頃、こんな話があります。田上の關所での事です。見るからに若々しい田舍侍の一むれが、茂木の方から入って來たので、奉行組下の兵士たち
が誰何しますと、その中の一人、背の高いのが、
「おいは長崎見物に來もした。 姓は金玉(きんたま)、名は珍右衞門(ちんうゑもん)と云ひもす」
如何にも鹿爪らしく名乘りをあげ、大手を振つて通ったと申します。云はば、倍臣の分際で、むかしなら幕臣に對して、言語同斷の振舞と忽ち斬りすてられるところだつたでせうが、徳川の威光も世の末になつてはどうにもならぬものです。さて、この金玉珍右衛門こそ、薩摩の大久保一蔵即ち後の大久保利通であつたといふ事です】