幕末 本と写真

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酒井玄蕃 晩年の写真

その容姿を大山格之助に「容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年であろうとは…」と称された酒井玄蕃
酒井玄蕃の写真についてはかつて2回ほど記事にしたことがある。
酒井玄蕃の写真 - 幕末 本と写真
酒井玄蕃の写真 その2 - 幕末 本と写真

今回は酒井玄蕃晩年の写真。

玄蕃の弟の黒崎研堂の日記を現代文に編訳した『黒崎研堂 庄内日誌 第一巻』(黒崎研堂庄内日誌刊行会、昭和59年)にもこの写真をトリミングしたものが掲載されている。そちらのキャプションには「療養中の酒井了恒・吉之丞」とある。
明治9年2月5日に満33歳3ヶ月という若さで亡くなった玄蕃。確かにこの写真では無精髭を蓄え目も虚ろ、いかにも病み衰えているように見える。晩年の肖像になるであろう。

『黒崎研堂 庄内日誌』から研堂が道中で兄の死の報を受けた日(明治9年2月17日)の条を紹介したい。明治8年の秋に上京したころから重い病に苦しんでいた玄蕃の姿を知ることができる。

【殺仇山(大田原市の南二粁半、佐久山)をすぎて五、六里、 渋谷永太に遇う。はっと驚き、胸騒ぎして、どうした、と訊ねると、お亡くなりになりました、と語って涙は止めどなく流れ、言葉は言葉にならず。車を下りて、荊草を敷き腰を下ろす。しばらくして涙も収まり、且つ語り、且つ咽び泣きつつ、話す。聞けば、「去年の秋上京なされてから具合がすこぶるお悪いばかりか、征韓問題で、日夜病気を冒し、寝食をわすれて、奔走なさいました。これよりさき病気を歎いて、ああやんぬる哉、 天われに韓国の地を踏ましめぬかとおっしゃっていました。そして伊豆の熱海に湯治に行かれて一カ月半、療養に専念されました。ああ悲しいことでございます。私はおそばに侍って百余日になりますが、いまだかつてお宅のことなど一言半句も仰せられず、心配されることは父上の暮し向きがだん だん不如意になることだけで、面にあらわして心配して居られました。それのみならず近衛や巡査になっている庄内の者が毎日うるさい程集まってきて、入れ代り立ち代り貧乏話をして君を悩ましていました。私は殊にこのことを心配していました。 おそらく は積り積った心配が病気を悪くしたのではありますまいか。時々申し上げても少しもお取上げになりませんでした。ああ哀しい。 君はただ医師舜海の言葉を信用なされ、寝食起居ことごとく言い付けを守られていたのに、こんなことになって、医者の言うことなどまったく信用なりません。それだけではなく、発病は先月二十九日でしたが、夜中がばと起きて、ああ胸がつまる、呼吸がくるしいといわれ、一晩中休まれず、夜の明けるのをまちかねて医者に走りました。ところが医者はこっそり私をよんで、あれこれと言います。私は腹が立って腹が立って言ってやりました。そんなことは私の言うべきことではない、あなたが直接申し上げなさいと。医者は納得して、兄上を東京に返し入院させ、療養に専念させ たのです。しかも自身はのんべんだらりと温泉場にいる。いくら腕がよいといっても頼りにならないことはこの有様です。ああ哀しいことです。東京までの帰路二百里あまり(旧制五町乃至六町を一里とす)、いよいよ呼吸が困難になって立つことも出来ず、私が独りで扶けて汽車にのせてあげましたが、そのお苦しみは言葉につくせません。私が至らず、介抱が行きとどかなかったと恐縮しています。ああ哀しい。しかしながら松平様、勝山様、そして栗田様らの看護は実に行きとどいたもので葬式も盛大に営まれました。 これも御恩報じの一端にすぎません、と。聞き終って一同涙にくれるのみ、如何ともすることが出来なかった。仲兄はさらに南下し、私はひとり別れて北に引き返す。仲兄には墓誌のことをお願いし、私は後嗣ぎのことを引き受ける。再び昨日泊った宿駅に帰る。
時まさに二月十七日。死亡の日時は二月五日。発病後八日で去。ゆくゆく思うに、兄上の徳はまさに北条泰時にも匹敵しようが、その学問を完成し得なかったのは天命で致し方ないとしても、もしそれを成就していたならば、どうしてこれらの人々の比であろう。 殿様はこの武将を失い、父上はこの子を失う。わが親戚一同はさらに心を尽して殿様に、父上に報い奉らねばならない】