幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

金玉チン右衛門こと大久保一蔵

『維新長崎』は長崎市教育會から昭和16年に出た本。維新期の長崎を平易な文体で描いている。平山蘆江が装幀しており雰囲気のあるルックになっている。
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さて、その本の中に大久保利通に関する面白い話が出てくる。大久保は自らを男性の陰部に擬えた名前「金玉 珍右衛門(キンタマ チンウエモン)」を名乗って幕府の役人の守る関所を通ったという。キンタマチンウエモン…そのまんまだ。あの厳格そうな大久保利通が。ほとんど浅草キッド玉袋筋太郎かつぼイノリオの金太の大冒険のような名乗りではないか。
このこと、ウィキペディアの大久保の項にその変名としてぜひ載せてほしい(笑)

時は慶応3年3月に長崎警備を厚くするために浦上口(西坂)、西山口、日見峠、茂木口(田上)の4ヶ所に関所を設けて長崎への人の出入りを見張るようになったくらいの頃だという。実際の大久保にそのころ長崎行があったかどうか、私はあえて調べないでおいている。

抜き出してみよう。

【その頃、こんな話があります。田上の關所での事です。見るからに若々しい田舍侍の一むれが、茂木の方から入って來たので、奉行組下の兵士たち
が誰何しますと、その中の一人、背の高いのが、
「おいは長崎見物に來もした。 姓は金玉(きんたま)、名は珍右衞門(ちんうゑもん)と云ひもす」
如何にも鹿爪らしく名乘りをあげ、大手を振つて通ったと申します。云はば、倍臣の分際で、むかしなら幕臣に對して、言語同斷の振舞と忽ち斬りすてられるところだつたでせうが、徳川の威光も世の末になつてはどうにもならぬものです。さて、この金玉珍右衛門こそ、薩摩の大久保一蔵即ち後の大久保利通であつたといふ事です】

『元治甲子 禁門事變實歴談 附木戸氏之行動』

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【元治甲子 禁門事變實歴談 附木戸氏之行動
洋一冊  馬屋原二郎演述

元治元年禁門事變の實況を、當時の戦闘に參加して、九死に一生を得たる後の貴族院議員馬屋原二郎(小倉衞門介)が、自己の見聞並に木戸孝允の手記書翰共他先輩諸士の談話實録等に據りて、演述せるものにして、同事變に關する經緯を説くこと詳細を極め、有力なる維新史料の一たるを失はず。因みに本書は、防長學友會雑誌臨時増刊として、防長學友 よリ、 發刊されたるものなリ。
(大正二年十月 菊判假綴一二四頁)】

上記は高梨光司の解説の引用になる。
(『維新史籍解題』明治書院昭和10年)

本文からも馬屋原の演述の始まりのところを抜き出してみよう。演述の意図がよく分かる。

「此から禁門の事變に於ける私の實歴談と、故木戸孝允(元内閣顧間)の當時に於ける措置進退とに關して私の實見したところを申上る積りでありますが、 何分今を距る五十年も昔のことでありますから、當時京洛の間に活動して、幸に生命を全うすることを得た人々も次第に亡くなりて了ひ、今日では既に殆んど居ないと云つてよい位で、禁門の事變に關係した人々によって組織せられた甲子殉難士祭の如きも、出席者中當時の事變に參加したものは、僅に五指を屈するにも足らず、他は其の子孫若くは縁故者のみであると云ふ有様であります。從つて今のうちに當時の有樣をお話して置くと云ふことは、多少価値のる事であらうと思ふのであります。ことに當時に於ける木戸孝允の行動を知つて居る者は、今日に於ひて恐らく私一人と云つてもよいだろうと信じます。此のことは木戸が自ら當時の事情を語つて杉山孝敏に筆記せしめられたもの、及び近頃、木戸侯爵家に於て發見せられたる故木戸氏の手記に就て御覧になれば、よくお分りになることであります。」

原市之進『尚不愧齋存稿』

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原市之進の遺稿集『尚不愧齋存稿』。
この本については高梨光司の解説(『維新史籍解題』)が簡潔にして明瞭なので引用させてもらおう。

【『尚不愧齋存稿』和四冊 線引泰編

水戸藩士にして、徳川慶喜の左右に侍し、その帷幄の概機に參せる原市之進(名忠敬、後忠成、字仲寧、號伍軒、尚不愧齋)の遺稿にして、書中「督府紀略」一篇は、市之進が、文久慶應の間、數度慶喜に隨行して、上京し、みづから見聞する所に基き、慶喜の内外時局に處せる經緯を記せるもの。上中下三卷の中、下卷の後半な闕くも、筆を京師に於ける慕府の職制に起し、安政以來の政情を叙し、文久三年の大勢一變に至る。盖し維新史料の一として、極めて貴重なるものなリ。
(明治十七年三月 東京 吉川半七 唐本仕立 各冊約五〇丁)】
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一巻には昌平黌の同窓だった薩摩の重野安継や仙台の岡鹿門の序を寄せている。
京において原と交流した安達清風の後序は彼の人となりの分かるものになっている。興味深いものなので抜き出してみよう。原は国事のことで頭が一杯で、酒席で美妓が目の前にいてもいっこうにそれに構うことはなかったという。朴念仁もかくやという態度でおそろしく真面目な人物だった。

「諸語勤上の士タ東山に会飮し共に天下の事を論じ、鮮を撃ち妓を呼びて狂歌剣舞、傍ら人無きか如し。面して仲寧才識迢邁、敢へて疾言遽色、人と長短を争わず。名妓麗妹多く意を属す。面して仲寧未だ曽て一顧せず。酒酣にして則ち袂を揮って去る。余曽てこれを戯れて日く、公はとんど人情に非ずと。仲寧色を正して日く、国家正に艱難、豈花柳に流連するの時ならんやと。余竊かに其操守に服す。 〔原漢文〕」

原には単書の伝記というものが私の知る限り極めて少ない。ふるさと文庫の松本佳子『原市之進』( 筑波書林、1990)、久野勝弥『原伍軒と「菁莪遺徳碑」』(水戸史学会、2005)くらいではないだろうか。あとは一冊の本ではないが『徳川慶喜公伝』の原の略伝部分が今も昔も基礎資料になっている。
幕末政治史研究が新たな地平を見せてくれている昨今、一会桑勢力の重要人物である原の伝記が更新され単書として編まれることを私は熱望している。
徳田力さんの一連のお仕事のように、ある人物の遺稿として残さている漢詩文を読み込んで有益な伝記資料として使う方法、あのメソッドをこの『尚不愧齋存稿』にも駆使すれば、原の生涯を今まで以上にクリアにできるのではないだろうか。そのうってつけの材料に『尚不愧齋存稿』はなるのと思う。

『推轂集』

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牧頼元は庄内藩士牧半右衛門の長男として弘化元年鶴岡に生まれた。到道館に学ぶ。明治8年に新潟師範学校に入学。卒業後は庄内の小学校訓導・校長に奉職。晩年は東京に出て日下部鳴鶴、芳賀剛太郎らと風交を結ぶ。書家として名があった。

明治44年4月30日、68歳の牧頼元は東京の古書店松山堂である一巻を掘り出す。『推轂集』と題されたその書は明治5年旧藩主酒井忠篤プロイセンに留学するのに際して酒井玄蕃以下108人の旧庄内藩士が献呈した159首におよぶ壮行の詩文集であった。忠篤の壮途に感激し、帰国後の飛躍に大いなる期待を抱いた各自の心境を詠じたものであった。そこには当時まだ到道館の学生だった牧も七言律詩一首を奉送していた。牧は39年ぶりに東京の古書店で自らの詩文に再会したのだった。
その感激を下記のように記している。
「日月電光、感慨なんぞ巳まん。然り而して今日、幸に之を購うを得たるは、まことに寵霊と謂はざるべけんや」「謹んで此の集を購い得たる所の縁由を其の巻末に織し、永く以て伝家の宝冊と為す」

しかし、牧のもとにあったこの貴重な『推轂集』は残念ながら関東大震災によって焼失しまう。

話はここで終わらない。

昭和56年、古川劾という人が鶴岡市の古物商から『推轂集』の写本を掘り出したのだ。
幸いなことに牧は大正6年に写本を作っていたのだ。
「今亦た一冊を謄写して以て副本とし、是に表して貴重珍襲する所。この集を敬意して以て子孫におくる」

編まれてから百年余、奇跡的に庄内に還ったこの集を松ヶ岡にあった社団法人丕顕会は読み下し文にして、活字でなく酒井忠治の筆になる影印版として昭和57年から平成6年にかけて4分冊にして刊行した。
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第1巻から3巻までは500部刷られた。価格は500円。第4巻は300部の発行、価格も1000円となった。
私が持っているのはそのうちの1、3、4巻。惜しむらくは2巻が欠けている。

生駒親敬

出羽矢島藩主 生駒親敬の名刺判鶏卵写真。
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この人の写真は単独で写ったものが馴染みがあるかもしれない。「最後の藩主」を特集したようなムック本でよく紹介されている。下膨れの顔がチャーミングな人。
こちらの写真は家臣二人を前に座らせて真ん中に立っている。前の二人は生駒家を官軍方につかせるのに功のあった重臣の小助川太右衛門、松原彦一郎だろうか?親敬の服装は一人写りのものと同じなので同じ日に撮影されたものだろう。内田九一の浅草大代地の写場で撮られたものだ。

生駒家は大名ではなく交代寄合旗本。江戸幕府最後の中川船番所の取締「中川番」を勤めた。
戊辰戦争において新政府軍につき庄内藩と戦った。矢島を襲ったのは庄内藩の中でも新徴組の三小隊だった。義経鵯越よろしく鳥海山を踏破し山頂に野営、7月28日の暁、一気に山を下つて矢島に攻め入つた。時に矢島には藩兵50名ばかりと些かの火砲しかなく、援軍の秋田藩兵も銃砲を持たない槍刀の部隊だったという。それでも必死の応戦を行ったが力及ばなかった。ついに生駒親敬は陣屋に火を放ち退陣、秋田に逃れた。
庄内藩の降伏により戦勝を得ると、その功績を認められ明治元年11月「藩屏に列せられ1万5200石余」に加増され、従五位下讃岐守に任ぜられた。生駒家悲願の大名復帰を果たした。讃岐守の名乗りは、実に250年前の生駒家三代・正俊以来のことであった。
明治2年版籍奉還し矢島藩知事となる。
明治13年9月9日死去。

酒井玄蕃研究誌『冬青』について

酒井玄蕃研究家の坂本守正は『酒井玄蕃の明治』稿了後すぐ、玄蕃の戊辰までの前半生の研究に着手する。そして昭和57年玄蕃の伝記研究のための会員制の個人誌『冬青』を創刊する。玄蕃自筆文書の解読を誌上に連載して読者の批判訂正を乞うとともに、新史料の発掘の呼び水にしたいとの意図のもとに発行された会誌であった。
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誌名の「冬青」は坂本の俳号から採ったもの。
題字を寄せたのは庄内藩最後の藩主酒井忠篤の孫にあたる酒井忠一。
発行元の冬青社は坂本のプライベートプレスになる。
商社マン(三菱商事)だった坂本は定年退職後の昭和54年香港で貿易業を自営。香港島の冬青道に面したビルの9階を住居としていた。そしてその書斎を「冬青山房」と名付けまた自らの俳号とした。日本に帰国後は埼玉に住むがその居宅の書斎も「冬青山房」の名前を継いだ。そこから会員に向けて酒井玄蕃の現在進行形の研究をプライベートプレスの小冊子にして毎月送り届けていた。当初は8ページ(後に10ページが主になる)で送料共一部200円(12号からは300円)。24号までは月刊で発行されていた。25号〜46号は年4回発行の季刊となったが、47号〜70号までは隔月の発行となる。値段は39号からは500円に値上げしている。
年会費があり、創刊当初は2000円。2年目に3000円に値上げしている。季刊に変わった3年目に1000円に値下げしたが、6年目からは2000円。9年目からは3000円になっている。

会員に名を連ねる人々は実に多彩である。名前を聞くと著作が思い浮かぶ人物が多い。藤沢周平、小山松勝一郎(清河八郎研究家、『清河八郎』『新徴組』)、山崎利盛(新整組山崎新兵衛子孫『庄内藩新整組』)、分部桃彦(新徴組分部実啓子孫、『英風記』)、釣洋一(私にとっては釣先生、『新選組再掘記』)、永井菊枝(幕臣乙骨太郎乙子孫、『小伝乙骨家の歴史』)、田中明(中根香亭研究家、『幕艦美加保丸宮永荘正伝』)、牧野登(幕末会津藩研究家、『紙碑・東京の中の会津』)、小島慶三(『北武戊辰小嶋楓処・永井蠖伸斎伝』)、島津隆子(作家、『 新選組密偵山崎烝 』)など。
また坂本の母校鶴岡中学の同窓生たちも名を連ねる。その多くは庄内藩士の子孫であるため庄内藩の史料探索に有力なアドバンテージを坂本に与えた。坂本は還暦以後に玄蕃研究を本格化したのたが、その際に鶴岡中学(前身は前々回のブログ記事で触れた荘内中学)卒業生の人脈をフル活用できた。旧藩地のような地方史研究をするのに旧藩校にルーツをもつ郷土の名門校の同窓人脈がいかに利点があるのかがよく分かる。逆にいえば在野の研究者の場合そういった人脈がないと研究にはなかなかに大きな障壁があるといえるかもしれない。現実的なことで、それを言ってしまうと元も子もないかもしれないが。

さて、その『冬青』私が所有しているのは創刊号(昭和57年)から70号(平成5年)までである。他に第4号の付録として『孤忠の志士 阿部千萬太』という別冊と、人名索引が2冊、1号〜24号までの分と1号〜39号までの分が出ている。各号にはパンチ穴が開いていてファイリング用の緑色の表紙を綴り紐で綴るような体裁になっている。
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私は『冬青』の書誌の全容を知り得ていない。なので所有している創刊号〜70号と別冊と表紙のそれが全揃いのフルセットなのかどうか分からないでいる。70号より先の続刊はあったのだろうか?とりあえず70号には終刊を示す文言はないので続刊があった可能性はありえる。どなたかその存在を知っている方がいらっしゃったらご教示願いたい。

坂本の創刊の辞を転載してみよう。
【故人の伝記を草するのは、永久に終りのない仕事なんだなとつくづく思わされます。遺存する一次史料の数は限られている上、後から史料が発見されると、その一点がすでに描いた人物像の全面的見直し修正を迫ることもあります。
次のシリーズ第三輯『酒井玄蕃の生涯・前篇』(仮題) に取組む段になっていよいよ痛感されるのは、歴史についてのどうしようもない基礎知識の貧困、それと、「明治維新をどう理解するか」という命題の途方もないムツカシさです。 「近現代日本をどうとらえるか」というのと、 ほとんど同義ですから。
一方、蹉鉈たる白頭翁のかなしさ、 のんびりしていればすぐもう日が暮れてしまいます。
そこで、読者参加によって史伝をまとめてゆくほかないと思い至りました。 一冊の書下しにして世に問う」前に、ますこの小誌一回分づつ、 一次史料(遺墨)の解読を中心とした小稿を提供し、その都度それへの批判、叱正を待つのです。その間に新史料の提示を忝うすることがあれば、 これ以上の幸せはありません。こか本誌発行の趣旨であります。
なおまた読者の研究・随想・批評・所感などで誌面を多彩にすることができるなら、どんなに嬉しいでしょう。
切に諸賢の惜みないご支援をお願い中上げます。
  昭和五十七年七月
              冬青山房主人 敬白】

誌面の核になったのは「酒井玄蕃の遺墨」という玄蕃が残した史料紹介とその翻訳の連載である。18回続いている。また玄蕃に関しては「玄蕃の逸話」や「酒井玄蕃松本十郎」という記事も連載されている。
そして25号(昭和59年)ではこのあと36号の発行までには『名将酒井玄蕃』(仮称)という玄蕃の伝記を刊行したいという目標を立てている。しかしこれは叶わず仕切り直しとなる。平成元年の第44号の巻頭、坂本はついに玄蕃の前半生の叙述を開始することを宣言する。次号から5~6ページの連載を12~13回分行ってそれを一冊の本としてまとめる。それをもって『冬青』は役割を終えて終刊とするいう目途を立てた。
しかし期待された玄蕃の前半生の連載(「酒井玄蕃の生涯」)はけっきょく6回どまりとなってしまった。元治元年江戸で天狗党の真田帆之助らを討果たした玄蕃は庄内に帰国、到道館に復学したところで、坂本は玄蕃の人格を描くために、玄蕃が受けた学問、庄内藩の藩学についての話に内容をシフトさせてしまう。「庄内藩学の形成と到道館の教育」という連載が17回分続く。『冬青』の終刊を確認できていないので、確かなことは言えないがここで玄蕃の前半生を描く試みは途絶してしまった。おそらくは「酒井玄蕃の生涯」は未完の連載になってしまっただろう。
なんとも惜しいことだ。坂本にはぜひ玄蕃伝をまとめて欲しかった。玄蕃は伝記の編まれるべき魅力的な人物である。なによりそのことを教えてくれたのは坂本でありその業績であった。玄蕃研究の第一人者の描く正伝を読んでみたかった。

代案がある。
『冬青』から玄蕃に関わる「酒井玄蕃の遺墨」「玄蕃の逸話」「酒井玄蕃松本十郎」「酒井玄蕃の生涯」などの連載やその他のこまかな記事を集めて一冊にまとめて出版することができれば、それは玄蕃の伝記として価値あるものになるのでないか。たとえ未定稿でも坂本の描く玄蕃伝を渇望する人は少なくない筈だ。あるいは現在では入手しにくくなっている『明治の酒井玄蕃』と一緒にしてそれを合本にして出版すれば、分量的にも玄蕃伝として見栄えのする一書になると思われる。どこかの書肆が実現してくれないだろうか。

『酒井玄蕃の明治』坂本守正の著作

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幕末維新の庄内藩および酒井玄蕃の研究家だった坂本守正。その著作で私が持っているのは『酒井玄蕃の明治』『戊辰東北戦争』『出羽松山藩戊辰戦争』『七星旗の征くところ−庄内藩戊辰の役−』の4冊である。

この中でもっとも一般的なのは『戊辰東北戦争』(新人物往来社)だろう。庄内藩戊辰戦争を理解するのに最適な一冊である。戊辰から120年後の昭和63年に出版された。干支はまさに戊辰の年であり、そのタイミングで種々戊辰戦争関連の出版企画を立てていた新人物往来社の名編集者大出俊幸氏が坂本をフックアップし庄内秋田の戊辰史のこの力作を世に知らしめた。ちなみに大出氏には『楢山佐渡のすべて』(昭和60年)という新人物の『すべて』シリーズの中でもとびきり史料性も高く振り切った本の編集もされている。会津藩や長岡藩の戊辰史に比べて語られることの少ない北東北の戊辰史に関してこの2冊はまずはじめに頼るべき本になっている。その恩恵に我々は浴しているわけだ。

この本の元になったのが坂本が荘内日報で昭和62年の1月から翌年の3月まで357回にわたり長期連載していた「あゝ七星の旗は征く」という記事。これは明治28年に出版され従軍藩士の日誌や覚書、書簡や談話を収集して庄内戊辰史の全貌を書き残した和田東蔵の『戊辰庄内戦争録』を現代文に訳し紹介したものである。もともと坂本は玄蕃研究のために個人的に『戊辰庄内戦争録』の現代文訳を行っていてその稿は昭和61年に完成していた。原稿用紙1800枚に及ぶ大作だった。それを元に翌年新聞連載がなされたわけだ。
好評だったこの連載は書籍化が読者に熱望されていたものだが、なかなかに実現されなかった。ようやく荘内日報社からタイトルがやや改題されて『七星旗の征くところ ー庄内戊辰の役ー』として出版されたのは新聞連載から8年後の平成8年。坂本はすでに没していた。定価は税込4300円だった。

『戊辰東北戦争』は「あゝ七星の旗は征く」の書籍化を待ちかねてそのダイジェスト版として改稿短縮されたものである。内容もスリム化されて分量も3分1になっている。当初は小説風の原稿になっていたが、大出氏のアドバイスで史伝体に書き直された。そちらで正解だったと思う。後世に残るものとなった。現在の古書価は3000円以下とそれほど高くない。当時の定価は2000円であった。

待望された『七星旗の征くところ』は二段組で約500ページの厚冊。はじめに読者参加型の連載にしたいという意向をしめし、指摘や教示、新史料の提供を呼びかけている。連載時のライブ感が失われておらず、そこが妙味になっている。
出版部数は版元の規模からしてあまり多くなかったようで古書市場になかなか出回らない。手に入れることが難しい本になっているので、強く復刊を望みたい。
庄内藩の幕末史に興味のある方は『戊辰東北戦争』『七星旗』のどちらか(もちろん両方でも)の本をぜひ書架に納めて欲しい。

出羽松山藩戊辰戦争』(松山町、昭和61年)は松山町史の史料編第一輯として刊行されたもの。庄内藩支藩だった松山藩士の戊辰従軍戦記、日誌を収録している。松森胤保の「北征記事」の現代文抄訳と毛利廣明(丹羽丹治)の「陣中日誌」の翻刻と現代文訳を載せる。それらは庄内藩戊辰史の史料として大変有用なものになっている。
坂本は史料読解のためにつねに史料を現代文に訳して稿として残していたようだ。史料の内容理解のためにはもっとも基本的で重要なことだか、それをちゃんと稿に仕立てる労力は並大抵のことではない。還暦を過ぎて研究を本格化した坂本であるが、その精力的なことと筆まめなことには驚かされる。
こちらは定価は2500円だった。

酒井玄蕃の明治』(昭和57年)は玄蕃に関するいまのところ唯一の単書である。
玄蕃は明治7年の秋、征台の役の収拾に関連して黒田清隆開拓使長官から密旨をおびて清国に赴く。北京にいたり、ついで長江を遡って漢口に達する。帰朝すると「直隷経略論」という対支戦略書を黒田長官に呈した。その間の事情を中心に玄蕃の短い生涯の後半生に光をあてた本である。
到道博物館内に設けられた荘内人物史研究会の発行した荘内人物史考シリーズの第2巻として発売された。
当時の発売価格は1300円。192頁。発行部数は1000だったという。だとすると実はそれなりの数が出た本だったわけで、あるいは古書で探すこともそれほど難しいものでないかもしれない。

坂本にはこの本では欠けている玄蕃の前半生を描く企図が大いにあったようで、荘内人物史考シリーズの第3巻目は『酒井玄蕃の生涯・前篇』(仮題) として出す予定であった。そしてそのための準備は着々と念入りに行われていた。自ら玄蕃研究のための個人雑誌を創刊までしている。
その個人誌『冬青』は酒井玄蕃の伝記研究には欠かせないものになっている。その存在については坂本が著書の中で触れていることもあるので知っている人もいるだろう。しかし所蔵先が極めて限られているだろうから、幻の個人誌といってもいいものかもしれない。
『冬青』のことは次回のブログ記事で記してみたい。

安藤惟親『切山椒 九十三年の思い出』

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安藤惟親『切山椒 九十三年の思い出』(萬葉堂出版、昭和58年)

荘内館は本郷元町にあった荘内出身者のための東京の学生寮であった。
安藤惟親は明治43年に荘内中学を卒業すると上京、東京高等工業学校に学んだ。荘内館に寄宿した。
この人はスペンサー銃で装備した奇銃隊を率いて戊辰戦争を戦った庄内藩士安藤定右衛門の孫にあたる。
本書はその安藤惟親の自伝であり、安藤が大正初年に荘内館で出会った人々(そのほとんどは旧庄内藩士の子弟になるであろう)に関する回想を載せる。当時東京に出ていた庄内人たちの動向が分かるものになっている。
この本は幕末の庄内藩についてことさらにフォーカスして書かれたものではないのだが、わずかながら戊辰戦争のエピソードや酒井玄蕃に関することなども書かれていて、なかなかに見捨てられない本になっている。

酒井玄蕃に関するところを一部抜き出してみよう。

【我が朝廷に於ては支那との交渉談判の為め大久保利通自身が支那に赴くことになった。大久保は酒井玄蕃に、是非一緒に行って貰ひたいと懇請したと聞く。玄蕃は当時肺病で歩行も充分でないので、堅くお断りしたが、大久保は頭を低くし、ただあなたに同行して貰へばよい、自分の側に居て貰えばよい、駕に乗って同行して呉れと切実に頼み込んだとのことである。当時一大佐といふ低い地位のしかも影のうすいやうな荘内藩の一武士に過ぎないものを、日本一の大久保がそれ迄にして玄蕃の力を借りたかったのは、矢張秀れた大人物だったからに相違ない。
大久保は矢張天下の大物だったと思ふ、と同時に我が玄蕃さんを敬して止まないところである。
此の話は、 荘内館に於て監督佐藤雄能先生よりきいたものである。】

また戊辰戦争の関してこんなことも書いてある。

【荘内軍が清川の立谷沢川右岸腹巻岩に陣どる官軍と川を隔てて激戦を交して居た。双方死力を尽して戦ったが、遂に官軍は新庄方面に逃去った。その時のことである。
此の話は今から約六十年前東京本郷元町の荘内館に於て監督佐藤雄能さんから四方山の話の中で私が親しくきいたるのである。
松嶺に阿部千万太といふ相当有名な仁が居った。此の千万太氏は長州の桂太郎と友人であった。江戸で修業中親交があったものと想像する。当時官軍の此の方面の大将は桂太郎、後の総理大臣で少佐時代ときく。
後日千方太氏が桂にあった時、腹巻岩の戦の話が出た。千万太氏、桂に向って「君、なぜもう少し頑張らなかったのか、荘内軍はもう手をあげるところであった、君が引いてくれたので荘内軍は助りホットした云々」。 ところが、桂は「君の方こそなぜ追撃しなかったのか、僕はかごで逃げる時今死なうか今死なうかと脇差をだいて居った、ほんとに助かったヨ云々」と答へたといふ話である。
立谷沢川をはさんで激戦のつゞいた時、荘内軍は立谷沢の農民をかり集め、鳴りものを鳴らし上流よりワアワアと大声を上げて官軍をおびやかしたのがうまく図に当り、官軍が敗走したのであった。それで荘内軍は追撃どころか皆ホットしたものとか。】

安藤は学校卒業後は芝浦製作所を経て富士製紙や早川電気、朝鮮水電に勤めて水力発電の建設業務に従事した。昭和10年以降は大日本電力や東北電力で保守や経営業務に従事した。
リタイア後の最晩年に本書をものしている。

蝦夷共和国の面々の写真

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蝦夷共和国」の面々のおなじみの写真の複写である。

戦前の五稜郭で絵葉書代わりのお土産として売られていた写真ではないかと推測している。

榎本武揚の写真がないのは、なぜか榎本だけはサイズ違いの絵葉書大になっているため。そちらもいつか紹介してみたい。

 

複写の元ネタは函館市立中央図書館(昔は市立函館図書館)に所蔵されている写真である。現在では書籍やネットで高精細で見ることのできる写真だ。

十人写真が1枚の半切大のグレーの台紙に貼られたものと、十人がそれぞれ個別の台紙に貼られた10枚の写真との二種類がある。

箱館戦争時に榎本軍の人々を撮影したのは田本研造。その田本の弟子にあたる写真師池田種之助が函館図書館の館長岡田健蔵へ明治44年に寄贈したものになる。グレー台紙の1枚もの方の裏書きにその旨が書かれている。その時点で原写真でない複製物である。目元パッチリ鼻筋がスッと通った人工的なイケメン顔に修整がされている。

今回紹介するのは、その池田種之助寄贈の写真をさらに複写したもの。正直出来ばえはイマイチである。

背景から人物から切り取られていて人物のキワに違和感がある。加えて露出過多で細部が黒く潰れてしまっている。とても質のいい複写とは言えない。

下部に役職名がガリ版文字の書体で焼付られていて、それが全体のチープさを強調している。しかし逆にそれがなんともいえない味わいにもなっている。

出来の悪い複写のために図像から得られる情報量は少ないのが悲しいが、戦前にはこの複写のものが榎本軍の写真として世間に流布している。『幕末・明治・大正 回顧八十年史』(東洋文化協会、昭和8~10年)という本にはこちらのチープ写真の方が掲載されている。

岡田盟のこと

文久三年の浪士組に参加し道中目付の役に就いていた岡田盟。
本庄宿で芹澤鴨の宿をとり忘れたためにその憤怒を買い篝火騒動を引き起こされてしまう人として名前を覚えらているかもしれない。
いかなる人物だったのか。

岡田盟、新田郡大原の人。代々の医家であった。その父親は岡田文盟(文鳴)。勢多郡下増田村の名医岡田養庵の孫で政造といった。後に医名を文盟と称した。京都の吉岡南涯に医を学ぶ。帰郷して新田郡大原に独立開業すると繁盛した。詩人としても名があり、三月盡江村晩望という作があるという。鈴木広川の「玉船集」という詩稿にも文盟の名が載る。詩作の際に用いたものか好成堂文鳴とも号した。別に名は邦、字は子彦ともいった。安政四年に没す。享年は不詳。
土地で流行った俚謡に「死なば寺泊 生きらば岡田 どっちつかずの椎名さん」というものがあり文盟の名前が謡われている。死ぬのならば殷賑を極めた寺泊に行って思うままにしろ。生きたいのならば岡田文盟に診察してもらいなさい。そのどちらなのだ椎名さん(椎名素雲のこと)という内容の謡であろう。

文盟の子供が岡田盟だと考えられる。本来はこの人も文盟という医名を継いだのだろうが志士活動を行うに際して改名したのだろう。浪士組には盟の一字名で参加している。村上秋水(浪士組参加の村上俊平の兄)の日記に後のことではあるが元治元年「岡田文盟都下に縛さる」という記述がある。村上は盟を医名の文盟の方で認識していたのがこれで分かる。

医家だった盟が尊攘思想に目覚めたのはなぜか。出身地の東上州(東毛)は新田義貞の本拠地だったため住民は新田の旧臣の末裔が多く尊王の気風のある土地柄だった(高山彦九郎を生んだ地域である)。
そこにシーボルト門下の蘭医村上随憲とその子秋水が主催した地域の医家同士の勉強会が行われる。そこが政論談義の場に発展。昌平黌出身の大館謙三郎が中心となって尊攘の思想グループになっていく。盟、村上俊平、斎藤文泰、深町矢柄、粟田口辰五郎、石原束、高木泰運ら浪士組に東毛から参加した多く人々は本来は医を生業としていたが尊攘思想に目覚めた人々であった。

その場所に池田徳太郎が安政3〜5年の間に数度遊歴してくる。言うまでもなく清河八郎の同志となり浪士組結成の最重要なキーマン(スカウティング担当)となる人であるが、芸州出身の池田はその志士歴の始まりをこの東毛への逗留でスタートしたのであった。東毛は学問の盛んな土地でもあり、伊勢崎5代藩主酒井忠寧は好学の人で学問を奨励した。領内の伊与久には五惇堂という郷校があって高井中斎や深町北荘などの地元の文人が講義をしていた。そこにゲスト教授として藤森天山が江戸から招かれ来訪したことで藤森天山の門下生と東毛の志士が人脈的に繋がる。師の跡を受けて若き池田徳太郎が東毛に遊歴し村夫子よろしく村人たちに教授した。池田はその人好きする性格でこの地の学者、文人、墨客、医家を魅了し深く交流する。東毛勤王家のリーダー的存在の大館謙三郎とは「親友に罷成候」といった間柄になっている。このとき作った人脈が浪士組のリクルート活動ために池田が東毛に再訪した際に十二分に活かされてこの地からの多くの人が参加している。
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(↑は大館謙三郎の肖像写真。長州力に激しく似ていると私は思っている)

盟は上記の尊攘人脈のもとに浪士組に参加。初期編成では道中目付となっているのだから、上州勢の中でも相当の人物として遇されたわけだ。しかしせっかく上京するもとんぼ帰りの東帰に従う。
攘夷実行を待つも幕府からの命令はなく、清河八郎は独自に横浜焼討を計画する。攘夷の軍資を名として市中の札差や豪商から献金を強請するようになる。憂慮した幕府は清河を暗殺。その翌日4月14日には村上俊五郎や石坂周造らの浪士組幹部やその連累の27名が捕縛される。馬喰町の羽生屋藤兵衛方に止宿していた岡田盟も捕らえられている。

盟はこのときは罪に問われることなく許されたようだ。浪士組は庄内藩に取扱を委任され新徴組に改称されるが、その新編成に盟も加わった。根岸友山が池田徳太郎に宛てた書簡には「石坂其外一件に付、岡田君日夜周旋無寸暇奔走」とあって、幹部捕縛事件の後処理に盟が奔走したことを伝えている。

盟はじめ東毛の浪士組参加者は清河八郎亡き後の浪士集団をまとめてくれる人物として池田徳太郎に期待する。盟と黒田桃眠は芸州に引っ込んでいる池田に50両もの大金を送ってその再出府を促している。重ねて盟は大館謙三郎、黒田桃眠の3人連名の書簡で池田の出府を繰り返し懇願。曰く「児の慈母を待つ如く待ち居り申し候」。
池田はこの懇望に対して老父の孝養のために東帰できない苦衷と50両を返金する旨を返信する。
池田を推し頂けなかったことが草莽としての浪士組の完全なる終焉だったであろう。庄内藩付属と小普請方伊賀者次席への身分への改編により新徴組隊士となった浪士たちは急速に体制側に飲み込まれていく。それを潔しとしない攘夷志向の強硬派の隊士たちは脱盟し、東毛出身の隊士も文久3年4〜6月中に多くが帰郷してしまう。

盟も結局は文久3年中には新徴組から離れたようだ。
そしてその後攘夷派の公家一条実良の家来身分を得ていたらしい。この時期一条実良は江戸に御用所なる出張所を構えていたようで、盟はその御用所附きの家士となって尊攘活動を行っていたようだ。一条家の横浜鎖港運動に関わっていたのかもしれない。
名も岡田伊織と改名していた。
そして元治元年にいかなる嫌疑によるものか庄内藩の手により捕縛され町奉行に引渡されてしまう。

『藤岡屋日記』に元治元年の2月「昨夜酒井左衛門尉人数相越、当御用処附、岡田伊織御不審之儀有之、御下知ニニテ召捕候趣」とある。
一条家では捕縛された盟を引き渡すように交渉も行ったようだ。
この件は郷里にも届いたようで、先に名前のところで参考に上げた史料だが、村上秋水の日記に元治元年3月7日の条に「大舘謙来りて云う、岡田文盟都下において縛される」という記述ある。
この検挙が尊攘活動によるものなのか、巷間言われる青木弥太郎の御用盗事件での捕縛なのか、他に何か事件を起こしたのか、天狗党とのからみなのか等々、実のところ私は分からないでいる。

盟は200石の直参旗本の青木弥太郎が中心となって行われた御用盗事件に深く関わったとされる。青木とその連累は強盗犯として捕縛投獄される。青木は過酷な拷問を耐え抜き幕府瓦解により放免されるとと、庶民から反権力のピカレスクとして人気を得て講談、新聞記事、芝居や小説、回顧譚の主人公となっていく。
青木の明治になってからの懺悔譚(回顧談)に岡田盟との関わりを語っている。青木と浪士組の人々の関わりの発端は、青木の妻の母親が小笠原加賀守の家臣清水三右衛門だったことで青木は本所三笠町の小笠原家で弓馬槍刀の教育を受けたり、一時期は小笠原邸の長屋で暮らしていたこともあった。その小笠原屋敷に京都から帰ってきた浪士組参加者が収容されたため両者に交流がうまれた。
青木は浪士組のことを
「其人数は凡そ三百人ばかりで、何れも浮浪の徒でございました。其中に伍長や頭立だ者がございましたが、私は其者等と深く結合致しました。新徴組は徳川の士気を引立てるもので、幕府の怯弱の士よりも先づ義気のあるものと云ふことを感じましたから、其者等と謀手金策などを致しました」と言い、
また盟については「浪士中の岡田盟と云ふ者が、一時小倉庵に止宿して居りましたるところより、其者と申合せて浪士の名を騙て、大分金策されました。それは私共の知らぬことでございますが、小倉庵は「彼處に斯う云ふ不正な者がある。此處には内々横濱で交易をして居る者があるから、天誅に行はなければいけない」と私共に密告して、煽動して置いては、岡田と両人蔭へ廻て、其者を脅迫して、よからぬ金を奪た様子でございます」と語っている。
青木は御用盗事件の発端を作ったのは盟であり、小梅の料亭の主人小倉庵長次郎と結託して事件を起こしたとする。

青木はまた根岸の水稲荷にあった盟の別荘で軍用金の相談をしながら酒を飲んでいると、青木が押し借りに赴いた奸商の用心棒をしていて因縁の生じたある水戸浪士と鉢合わせてバツが悪かったことなども語っている。その水戸浪士は天狗党が立て籠もった大平山に合流するために青木に金を返してもらうために訪ねてきたというが、盟の寓居には水戸系の志士が訪れるような場所にもなっていたのだ。
また盟は吉原から落籍した遊女お辰を青木の妾としての当てがってやってもいる。お辰、青木の強盗団のファム・ファタールとして妖気を放つ女として語られる。
青木の回顧談の難点は時系列が分かりにくいことで、元治元年の盟の捕縛に青木一党との関わりがどの程度関係しているのか私にはいまいち掴み切れない。

とにかく元治元年2月検挙された盟は小伝馬町の牢舎に繋がれたと思われる。しかし驚くべき挙に出る。なんと脱獄してしまうのだ。火事になった際の切り離しで釈放されると、そのまま正直には獄に戻ることを拒み逃走。そのあとは再び一条家の家士の身分のままに江戸の町に潜拠。そして慶応の末年には薩摩藩の浪士隊に本多を名乗って加わっていたようだ。
ある意味、文久3年から元治元年の攘夷のための御用盗と慶応3年末の討幕運動に絡む薩摩の御用盗という二種の御用盗事件を体験した歩んだ稀有な人物だったといえる。

そのあたりの盟の動向がわかる史料がある。慶応3年10月の幕府密偵の探索書「江戸風聞書」というもので田村栄太郎が『日本の風俗』第2巻第4号(日本風俗研究所、1939年)の「攘夷強盗青木彌太郎懺悔譚」の解説部分で引用しているものである。
抜き出して見よう。盟と長年の同志高橋亘について書かれてる。

「當地潜伏の内
 此内一人白髪の由  本 多 何 某
 日暮(里)邊住居   櫻 井 何 某
右白髪の者は必す元新徴組岡田盟にこれあるべき由、盟義は上州伊勢崎邊産にて年五十三四、丈六尺に近く、人品賤しからす、辯ひま材これある由、武藝これなし。元醫師より新徴組に入り、其後宜しからざる儀これあり暇に相成り、 一條殿家來名目にて根岸邊に罷在り候節、酒井左衛門尉手に召捕はれ入牢いたし、出火の節出奔致し、行衛知れざるものにこれあるべし。

高橋亘
元新徴組にて伊勢崎邊の産、年四十位、柔術かなりにいたし、材気これなく、靑木好(彌)太郎召捕はれ候節、出奔の者の由。

原三郎
此者、本名田中九十九にこれあるべく、年三十位、月岡一郎門人、材氣つれなく、此者江戸出奔後に、 一條殿家來に相成り、江戸に下る時、すくひの由。

右の者共、 一條殿の手にて、薩士え入組み、王政復古の議論より暴行致し居り。

〇薩藩凡そ百五六十人(上屋敷其外にて五六十人、分家屋敷に百人程)。
〇押込の初め、御藏前坂倉屋七郞兵衛方へ這入り候由。先年岡田盟押借の節も同家に越し候。」

高橋亘は出流山の挙兵に参加してその志士歴を刑死で終えるが、盟に関してはその最期を明らかにすることはできない。
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(写真は東毛の名筆家で俳人、また私塾を開く教育者であった高橋巍堂の寿蔵碑。その側面。巍堂の一子が気楽流の柔術家で浪士組〜新徴組に参加した高橋亘。彼についてもこの碑に刻されている)

群馬県太田市大原町に岡田家の墓所がある。
同家は医家を廃して桑苗商となり、戦後は米麦養蚕の農家となった。同家からは薮塚本町町議会議員や区長会長などの公職を勤める人を輩出している。
墓石は新しいものに改められており、盟の没年を明らかにすることや、いまの岡田家のなかで盟を系図上で位置づけることを私は出来ていない。

長々書いてきたが今回の記事も不明なことのみ書き連ねたものとなった。この記事を岡田盟の伝記の第一稿とするのははなはだ不十分であり僭越の極みである。他日優れた研究家の方々にここでの多くの事柄が訂正されることを望む。