幕末 本と写真

蔵書紹介系 幕末維新探究ブログ

ある旗本奥方の墓

本庄市沼和田の宝輪寺に当地の名主だった卜部家の墓がある。卜部家は鉢形城主北条氏邦の臣卜部平三郎の後裔だという。北条没落後は徳川に仕え小鷹という姓を賜ったというが後にまた卜部に改めたという。そのこととおそらく関係があるのだろう、故ありてこの…

旗本 正木安次郎康房

埼玉県加須市多門寺にある観音寺に、この地を知行していた旗本正木氏の墓がある。 正木氏は家康の側室で紀州・水戸両藩の藩祖の母となったお万の方の弟の家系で一千石の旗本。 幕末期の当主は正木安次郎康房で、長州戦争に砲術世話心得として従軍。その際大…

高杉晋作は生きていた

高杉晋作は慶応3年4月14日下関で死んだわけだが、実は死んでなんかいなかった、生きていたんだ、なんてことを言ったら、さて賢明な皆様はどうお思いになるだろうか。 明治8年の12月に、生きていた高杉晋作に会ったという人がいる。土佐人の米山政人である。 …

ある会津人の殉職

埼玉県東松山市の松山神社境内には渡辺隆治という人物の頌徳碑がひっそりとたたずんでいる。会津の人。 渡辺隆治は会津藩士の子として万延元年に生まれる。幕末や戊辰の争乱をどう生きたのかは不明だが、明治10年に埼玉県に来ると四等巡査の警察官となる。勤…

根岸信五郎と藤田五郎

埼玉県戸田市本町の多福院という寺院に高さ3.7メートルにもなる巨大な石碑「根岸先生之碑」があります。 根岸信五郎資剛は長岡藩士。神道無念流の錬兵館に学ぶ。慶応元年に免許皆伝を得て錬兵館の師範代となる。北越戦争では官軍との戦闘で重傷を負う。明治…

平尾道雄の戦前の著作

平尾道雄の戦前の著作を蒐めています。ネットで買ったものは一冊もなく古本屋と古書展を何十年とコツコツ歩いて手に入れたものばかりです。 いまのご時世ならこれらの本はネットを駆使すればたちどころに蒐めることが出来るでしょう。この中で一番高額だった…

姫路藩士 小林順則の肖像

太田臨一郎の『日本の軍服』(国書刊行会、昭和55年)にも転載掲載されているのでそちらで見たことあるかもしれません。 元ネタは『風俗志林 』第一巻第八号(風俗研究会、明治45年)の口絵写真です。小林彦次順則、姫路藩兵嚮導役。明治二年九月六日撮影。…

屋代義雄のこと

埼玉県羽生市の建福寺には田山花袋の小説『田舎教師』の主人公のモデルとなった小林秀三のお墓がおりますが、同寺には屋代義雄という人の墓碑もあります。 屋代義雄は南部の出身で、旧名を高田立春という医師でした。幕末江戸に出て佐藤舜海や松本良順につい…

五代友厚と寺島宗則の亡命先

文久三年七月、薩英戦争で英艦隊の捕虜になった五代友厚と寺島宗則は横浜で釈放されると、清水卯三郎に救護され清水の姉婿にあたる吉田六左衛門を頼って埼玉は熊谷の四方寺村で亡命生活を始める。六左衛門の屋敷の表二階に潜んだ。後年屋敷を解体する時に二…

本庄宿篝火事件は解明されたのか

文久3年2月10日、その2日前に江戸を発した浪士組は中山道本庄宿に宿をとった。そこで起きたとされるのが芹澤鴨による本庄宿篝火事件だ。 この事件に関しては菊地明氏に「本庄宿篝火騒動の真相」(『ここまでわかった!新選組の謎』新人物文庫、2015年)があ…

男装の美剣士 中沢琴

「群馬人国記」は昭和44年から翌年にかけて上毛新聞に連載された上毛郷土史の人物小伝集。『群馬人国記』(歴史図書社)として昭和54年に単行本としてまとめられた。利根・沼田の部分を執筆したのは同地の郷土史家岸大洞であり、利根法神流の剣客の小伝を多…

鵜殿鳩翁の「浪士姓名簿」は現存していた!

本日、ツイッターにて貴重な情報を瓢中舎貞秀さまから教えていただきました。いやー、驚きです。瓢中舎貞秀さま、心より感謝申し上げます。 なんと!東京大学法学部に「浪士姓名簿」が所蔵されているという。その裏表紙には「御取締役 鵜殿鳩翁」と記名があ…

明治2年横浜、木戸孝允の写真

木戸孝允はその生涯で数多くの肖像写真を残している。 自らの容貌に自信があったため写真を残すことを好んだのだろうか。だとしたら、ややナルシスティックな人物像を感じる。 木戸家の後裔に伝わった「旧侯爵木戸家資料」は国立歴史民俗博物館に寄贈され、…

井野左近春房

井野左近春房 慶応元年大坂心斎橋の中川信輔の写場で撮られた肖像写真。 井野家は三河以来の譜代の幕臣。 左近は小十人格、歩兵指図役頭取を勤めたという。江川塾で砲術、講武所で洋式調練を学ぶ。幕府の陸軍人として慶応年間は将軍上洛にあわせて京都大坂へ…

ぐろりあ・そさえて版でいこう!アメリカ彦蔵

『開国逸史 アメリカ彦蔵自叙伝』(ぐろりあ・そさえて社、昭和7年) アメリカ彦蔵の自叙伝は最初英文で書かれ『 Narrative』(ナラティブ)と題され丸善から明治25〜28年に上下2巻で出版された。邦訳は、先ずは上巻の方を土方久徴が訳して『漂流異譚開国之…

岩瀬忠震に関する本

岩瀬忠震には中公新書の松岡英夫『岩瀬忠震』(昭和56年)の他に単書のしっかりした伝記が編まれていない。白鬚神社にある岩瀬鷗處君之墓碑は岩瀬の顕彰碑になっているが、開国の恩人にして幕臣中屈指の才子に相応しい紙碑(伝記本)が新たに編まれることを…

岩瀬忠震

岩瀬忠震には写真が残っている。 英国にあるヴィクトリア&アルバート博物館所蔵のものだ。安政5年、日英修好通商条約交渉の英国側の使節エルギン卿の秘書であったウィリアム・ナッサウ・ジョスリンが撮影した幕府側交渉委員7人の中にその姿が収まっている。…

松平春嶽

今回も幸田露伴の「幕末の政治家」から。 松平春嶽です。思案顔、愁い顔で威厳がなく気魄も薄い…。 〈松平春嶽 門地は高き人なれど威やや乏しく、身の丈は普通、やせ形にて面の色青白く、殿様らしくも見ゆれど、俗にいふ思案顔または愁ひ顔ともいふべき歟、…

大久保一翁

幸田露伴の「幕末の政治家」から、今回は大久保一翁の印象記を抜き出してみる。 錆びた声で物静かに語り、光輝く目をしていた。雰囲気のあるシブい大人であったのだろう。 〈大久保越中守 顔の構へ立派にて容儀好く、俗にグリ眼といふ眼にて、其ぎらぎらと光…

箕作麟祥

『露伴全集』第5巻(岩波書房、1951年)に「幕末の政治家」が収められている。幸田露伴が明治30年に発表したもの。焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上のお香・反魂香を用いるという体で幕末の大名や幕臣の容姿、人となりを紹介する興味深い…

熊谷勤吾

日田にあった西国筋郡代。幕末最後の郡代を勤めたのが窪田治部右衛門鎮勝であった。元治元年から慶応4年の肥後落(郡代の逃亡)までの5年間にわたり九州の幕府領を統治してきた。私は窪田治部右衛門のことは幕臣の中でも存在感のある注目すべき人物だと思っ…

「意志薄弱」「頼みにならぬ」伊庭八郎の語る榎本武揚

本山荻舟の随筆集の『板前随筆』(岡倉書房、昭和10年)の中に、伊庭八郎の榎本武揚に対する人物評が紹介されている。八郎の弟伊庭想太郎の記憶する兄の言葉だ。興味深い榎本評なので紹介しよう。 ≪ 榎本武揚といへば、後に朝臣となって栄達したので、旧幕臣の…

鵜殿鳩翁の「浪士姓名簿」

東京は上野に明治10年から続く老舗古書店 文行堂の戦前昭和13年9月発行の目録第17号に「浪士姓名簿」が出品され当時35円で売られた。(ちなみに同目録に高橋是清の自筆演説草稿も載るがそちらは30円。公務員の初任給は75円くらいだったそうだ) 目録には背開…

藤堂平助の妹

新選組の藤堂平助の実家と考えられる5000石の旗本藤堂家のことに関してはこのウェブログでとりとめもなく書いているが、いま少し書き加えるべきことが出来たため、いささかくどくはあるがこの話題を続けたい。 旗本藤堂家の采地は江戸近郊では武州の七ヶ村に…

慶応元年6月、岡崎に来た新選組隊士たち

遠州浜松にあった普大寺は江戸時代、虚無僧寺で普化宗金先派の本山として1613年に宗慶禅師により浜松に創建された。しかし明治に入り普化宗の廃宗に伴い廃寺となった。 廃寺となった寺の本堂は小学校として利用された。たまたま音楽の授業で使われていたアメ…

藤堂秉之丞の系譜と家紋

先に「維新階梯雑誌」の中の文久3年12月の新選組の名簿に 「平之丞妾腹惣領ノ由 江戸 藤堂平助 十九才」 とあることから、藤堂平助は湯島三丁目に屋敷をもつ5000石の旗本藤堂秉之丞の妾の長男だろうということを書いた。 しかし他にも、 「京師騒動見聞雑記録…

西郷隆盛の肖像

再来年の大河ドラマが西郷隆盛に内定したということを知った。 まだ先のことなのでだいぶ気が早いかもしれないが、しばらくしたら大河ドラマ需要で洪水のように西郷隆盛に関する書籍が出版されるだろう。 その出版ラッシュの際には、ぜひ再版してほしい本が…

藤堂平助の父親 藤堂秉之丞

『別冊新選組REAL 新選組10人の組長』(洋泉社MOOK)が先ほど発売された。「維新階梯雑誌」の中の新選組の名簿が掲載されていて読むことができる。 私のような横着者には注目の名簿がなんの手続きもしないで簡単に読めるというのは嬉しい。 文久3年12月に会…

伊庭八郎の顔

上の写真は伊庭真であるが、この人は伊庭八郎の実父である伊庭軍兵衛秀業の従弟だそうだ。 親類で顔というのはどのくらい似るものなのだろうか? 伊庭八郎の顔はどんな顔だったのだらろう。 八郎の弟の伊庭想太郎の輪郭や顔立ちも伊庭真と似てるといえば似て…

鶴ヶ城のエッチング

明治5年、外国人の自由な国内旅行が許されていなかったときに、一人のフランス人神父が二人のスイス人と一緒に新政府の許可を得て、函館から東北地方を縦断し横浜まで旅をした。パリ外国宣教会所属のJ.M.マラン神父である。同行のスイス人は横浜で貿易商を営…